――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(22)鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)

【知道中国 1929回】                       一九・七・念三

――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(22)

鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)

 では、なぜ第2の考えは成り立たないのか。かつて「支那即ち世界であつた」。だが、いまや「世界の一部分」であるばかりか「外國の壓迫といふことが支那の政治的大因子であ」り、それ故に「悠長なる無政府状態も、變遷的過渡期も支那民族にとつては之を續けて行くことが出來ない状態になつてゐる」からである。

 次に「現状を不滿足なりと爲し革新をしなければならぬといふ説」だが、今後の変化の可能性について鶴見は「凡そ六つの假定を想像して見る」。

 「その一つは英雄時代の出現である」が、「英雄政治の出現は先づ以て覺束ないと見る方が穩當である」。「第二の假定は、英米流のデモクラシー、即ち代議院制度に落付くであらうといふ説」だが、「支那の如く、英米に全く異なる傳統を有し、國情を有するところの國に、急に英米流の代議院制度が行はれるといふことは想像し難きところである」。

 「第三に、然らば中央集權に依るところの代議院制度は不可能であるにしても地方分權に依るところの聯省自治が可能ではないかといふ問題がある」が、その前提としては「支那人が自治の能力を本當に發揮し得る」のか。加えるに「その自治をしたところの支那人が、果して聯省といふやうな形で一國を成して存在し得るかどうか」――この「二つの條件」を満足させる必要がある。

 「第四に起きる假定は、經濟的立國論」である。これは「政治的に強き政府を造らなくとも、各地方に産業を興して、支那といふ一個の社會が確立すれば支那が發達する」という考えだが、ならば「今日直ちに政治的方面から支那を開發しないでも宜からうといふ」わけにはいかないだろう。

 「第五には、昨年華盛頓會議の際、唱へられた所謂支那の國際管理問題である」。その場合、「世界の文明國が公平無私の考を以て支那の爲に政治を代行する」といふ大前提が必要だが、「列國が果してそれだけの人道的心持を以て利�を措き、他國の行政を管理し得」るわけがない。それが可能だったとしても、「國家の體面上」、「支那人は決して之に黙從しまいと思ふ」。

 「第六に起つて來る假定は、支那が凡ての改革手段に失敗したる曉には、寧ろ露西亞の如く外國との連絡を斷つた一個の社會主義國となることが可能であるかどうかといふ事である」。当然のように「それは非常に大きな冒險である」。それというのも、「支那人が果して社會主義の思想を有する國民であるかどうか」に加え、「露西亞と異つて支那は外國から侵入され易き境涯に在る」からであり、であればこそ社会主義化して対外閉鎖を実行した場合、「外國が之を黙認するかどうか」が「明らかな問題」だからである。そこで社会主義化は「成功の可能性が頗る薄弱」と結論づけた。

 ところが鶴見の旅行から27年5カ月ほどが過ぎた1949年10月1日、毛沢東に率いられた共産党は「非常に大きな冒險」の末に、「露西亞の如く外國との連絡を斷つた一個の社會主義國」を地上に出現させてしまった。「支那人が果して社會主義の思想を有する國民であるかどうか」に拘わらず、「外國から侵入され易き境涯に在」ろうがなかろうが、さらには「外國が之を黙認するかどうか」の別なく、である。

しかも建国後を振り返ってみると、「先づ以て覺束ないと見る方が穩當であ」ったはずの「英雄政治」が毛沢東の手で実践されてしまった。もっとも毛沢東の治世は独裁政治であったとしても決して「英雄政治」ではないと否定されたらそれまでではあるが。

 27年5カ月ほどを間に挟んだ中国の激変を、鶴見はどのように考えたのか。もっとも日本も、中国をめぐる国際社会の政治力学も激変に継ぐ激変であったわけだが。《QED》


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