李登輝元総統の側近から見た「香港」と「台湾」  早川 友久(李登輝元総統秘書)

【WEDGE infinity:2019年7月13日】http://wedge.ismedia.jp/articles/-/16785

 台湾のニュースでは対極的な二つの光景が流されていた。

 ひとつは香港での「反送中デモ」、もうひとつが台湾で起きたエバー航空労組によるストライキだ。

 かたや、刑事事件の容疑者(外国人を含め)を中国へ移送することが可能になる「逃犯条例」(容疑者引渡条例)の可決を阻止するため、すなわち自由と司法の独立を守るために市民が立ち上がったデモであった。

◆民主化がもたらした「自由の苦い味」

 発端は6月9日だった。翌週には「逃犯条例」の改正審議を翌週に控え、香港では大規模デモが起きたのだ。2014年、台湾でのヒマワリ学生運動に感化されたかのように香港で起きた民主化堅持を求める「雨傘運動」は、結果的には警察による強制排除などもあって尻すぼみのような結果に終わってしまったが、今回のデモでは主催者発表で100万人以上が参加する前代未聞の規模だった。

 香港同様、中国が併合の野望を隠さない台湾でも「今日の香港は、明日の台湾」と言われるように、香港が陥落すれば中国は続いて台湾にも魔の手を伸ばしてくるという危機感が強い。そのため、皮膚感覚では、日本での報道に比べ、関心の高さもニュース量も台湾が格段に多いように感じる。大手テレビ局は各局がカメラマンやリポーターを派遣して香港から直接映像を送ってくる。

 翌週、香港の議会にあたる立法会を囲んだ数万人のデモ隊と警察が衝突。警察は催涙スプレーやゴム弾で制圧を進めたため、負傷者が続出した。ゴム弾が顔面にあたり失神したり、目から出血する参加者の姿が台湾のテレビニュースでは大きく流されていた。

 一方、エバー航空のストライキは、台湾社会ではほとんど同情や支持を得られぬまま終結してしまった。会社側も、客室乗務員や地上職員で構成された労組の待遇改善要求をほぼ撥ね付ける姿勢を貫いたため、労組の敗北といってよい結果だった。にもかかわらず、市民から冷たい眼差しを投げかけられるのは、彼女たち(ストライキに参加していたのはほとんど女性従業員)が一般的には、かなり恵まれた給与水準を得ていながら、それでもなおより高い待遇を要求したことが挙げられる。

 台湾の行政院主計総処が公表しているデータを見ると、30代から40代の平均月給は4万元前後(日本円で約14万円)にとどまっているところ、年齢にもよるが、エバー航空の客室乗務員だと搭乗手当などを含めれば倍以上の水準の待遇を得ている場合が多い。そうした客室乗務員は高給、という実情は結構知られているので、私の周囲でもストライキを支持するどころか「まだ欲張るのか」と不快感を示す台湾人が多かった。結果、ほぼ3週間近くにわたるストライキによって多くの便が欠航になり、なんと1440便が欠航。ドル箱といわれる日本線でも多くの欠航が出たようだ。

 私は香港と台湾というこの二つの光景を見比べて、台湾の民主化がもたらした「自由の苦い味」を感じずにはいられない。

◆「公」のために戦った香港の人々

 香港の人々は自由と司法の独立のために戦った。1997年に英国から返還されて以来、少なくとも50年は「一国二制度」のもとで自由が保証されるはずだった。しかし、その繁栄は年を追うごとに中国による締め付けで空手形となり、今や自由や民主、人権が大きく阻害される事態となっている。

 今回問題となっている「逃犯条例」だが、これは外国人だからといって例外ではない。日本人が香港の風景を写真におさめようと、カメラを向けた瞬間、「軍事施設を撮影しましたね」「スパイ行為にあたる」と拘束される事態が起きないと誰が言えるだろう。いったん拘束されたが最後、中国に送致されて中国側の描いたストーリーに則っていわば「人質」にされるのである。

 伊藤忠商事の社員が拘束されいまだに釈放されていないことや、温泉調査を行っていた地質調査会社の社員が「中国の国家機密を窃取し国外に違法に提供した罪」として懲役15年の実刑判決(加えて罰金)を言い渡されたニュースが、まさに香港を訪れる日本人の身に降りかかる可能性さえあるのだ。「中国の国家機密を窃取し国外に違法に提供した罪」と言っても、中国の刑法111条には国家機密が何たるかの例示列挙さえない。つまり、何が罪になるかを決めるのは中国自身だ。まさに「非法治国家」の恐ろしさである。

 電車を待っているとき、ショッピングに夢中になっているとき、あなたのリュックのポケットに禁止薬物の入った袋をそっと放り込むことはたやすいだろう。街角で「ちょっと見せてくださいね、これは何ですか」で、もはや人生が終わりだ。あなたは「知らない、私のではない」と言うだろう。「捕まるとみんなそう言うんですよ」と返され、中国での裁判を待つ身となる。

 そうした状況が刻一刻と近づいていることを香港の人々は敏感に感じ取ったのだろう。この「逃犯条例」改正を通してはならないと立ち上がった。まさに自由や司法の独立といった「公」のためである。流血や暴力などの惨事もあったが、結果的に香港行政のトップである林鄭月娥氏は条例改正の延期を表明した。ただ、香港の人々は「完全撤回」を求め、この原稿を書いている7月11日現在でもデモを続けている。

◆「自由」の意味を履き違えた人々

 対するエバー航空のストライキだが、前述のとおり、こちらも7月11日で収束した。エバー航空の従業員からすれば、確かに会社側に改善を求める大義もあったのだろう。しかし、彼女らが置かれた立場は、台湾社会においては比較的というよりはかなり恵まれた立場であった。そしてストライキのために、多数の便が欠航となり多くの人々がスケジュールを狂わされた。

 チャイナエアラインのストライキのときに繰り返し流された映像に、ある老婆が号泣しながら「初めて孫と海外旅行に行くのを楽しみにしていたんだ。なんとか飛ばしてくれ」と職員に頼み込む姿があった。もちろん労働者としての権利が保障されるべきことは重々承知しているが、ストライキ決行によって多くの人々に迷惑をかけるだけでなく、傷つけることさえあったことを肝に銘じるべきだろう。結局は「私」のために行動し、ストを決行したことが、台湾の人々から不興を買う結果になってしまった。

 LCCも多数就航し、飛行機がもはや一部のビジネスマンや経済的に余裕のある人々が利用するものではなくなった今、航空会社は公共交通機関とほぼ同様の社会的責任を有するようになったことに気づくべきだ。

 台湾は今や完全な民主主義を得たと言っていいだろう。しかし、民主主義イコール恣意的な自由ではない。責任と義務を踏まえてこそ権利と自由を主張する「権利」が生まれるのだ。台湾が民主化されたことは100%称賛すべきことであるが、民主化が定着した現在、「公」ではなく「私」を優先する一部の人々の行為には失望する。

◆李登輝が大切にする「公」の精神

 ここで、その台湾民主化を進めた「張本人」たる李登輝の考えを紹介したい。2014年に「ヒマワリ学生運動」が勃発したとき、私もそばにいて逐一経緯を見守ってきた。日本時代に徹底的な日本精神を身につけ「日本人が理想とした日本人になろうとした」李登輝は、「公」と「私」を厳格に峻別していたが、自身が総統を退任しても、台湾の人々、とくに若者たちが「公」のために尽くすことを大いに称賛してきた。

 2014年3月18日、サービス貿易協定の密室協議に抗議した学生を中心とする若者たちは立法院を占拠した。そして、3月30日には、総統府前でサービス貿易協定締結反対のデモを行った。台湾の歴史上例をみない50万人(主催者発表)という人々が総統府前広場を埋めたのである。

 実はこの日のデモ実施を聞くや、李登輝も「私も参加する」と言い出したことがあった。その気持も分かるものの、ただ、当時は体調が万全ではなかった。そのため、二人の娘と孫娘に「まだ風邪が完全に治ってないでしょう。そのかわり私たちが行くから」と諭され、思いとどまったという経緯があったのだ。体調が悪いのは承知のことながら、「公」のために尽くす人々を見て、自分も居ても立ってもいられなかったのだと思う。

 当時、李登輝はこんなことを言っていた。このヒマワリ学生運動は「国民こそが国家の主人であり、台湾の未来は台湾人によって決められるものだということを若者たちが実践躬行で示した。彼らは台湾の誇りだ」と。

 台湾の民主化が始まって20年以上。ヒマワリ学生運動からも5年が経った。台湾の民主化を守り、かつ台湾が中国とは別個の存在として自由と繁栄を謳歌するならば、いま一度、李登輝が身につけていた「公」の精神を取り戻すべきだろう。

              ◇     ◇     ◇

早川友久(はやかわ・ともひさ)1977年(昭和52年)6月、栃木県足利市生まれ。現在、台湾・台北市在住。早稲田大学人間科学部卒業後、金美齢事務所の秘書として活動。2008年に台湾大学法律系(法学部)へ留学。台湾大学在学中に3度の李登輝訪日団スタッフとしてメディア対応や撮影スタッフを担当。2012年12月、李登輝元総統の指名により李登輝総統事務所秘書に就任。共著に『誇りあれ、日本よ─李登輝・沖縄訪問全記録』『日本人、台湾を拓く。』など。


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