――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(8)
鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)
鶴見の危惧に、王は「まァ産兒制限論も追々は支那に徹底して參りませう」と苦笑を返しているが、この苦笑をなんと受け取るべきか。王をしても産児制限は至難であり、「世界の一國たる責任」は果たしようがないという諦念だろうか。
鶴見は政治問題に立ち返り、両国関係を問う。
「親善にしたいと申しても、日支兩國は親善であり得べき必然的理由があるかどうかを、正直に研究してみなければなりません。私は日本は支那なくしては存在し得ないと考へて居ります。支那も日本なくしては存在に大變な不都合があると、私は考へる」。つまり両国の関係は「生命的な問題であり」、それゆえに「日本はどうすれば、支那の全土に漲るこの反感を去ることが出來るのでありませう」。
鶴見のこの考えに対し王は、「日支の關係は、支那が日本を以て危險と感じなくなるときによくなりませう」と、「明白な答辯」で応じた。
そこで鶴見は「それでは、どこまで日本が讓歩したら、支那側に於ては滿足せられますか」と畳みかける。この質問には閣僚の一員である立場もあり、致し方ないことだが、王から明確な考えを引き出すことはできなかった。
最後の質問とでも考えたのだろう。鶴見は「私は今一つ、率直に申し上げたい」と断りながら、1915(大正4)年の対華21か条要求を「深く遺憾とする一人」だが、すでに「日本の國論も餘程變つて來ました」から、「これからはモーあんなことはないと思ひます」と述べたうえで、「私に一つ不滿のありますのは」と、パリ講和会議における「支那全權の態度」に注文を付けた。なぜ日本との直接交渉を試みなかったのか。なぜ「日本全國を一樣にみて罵倒」したのか。なぜ「外國の力をかりて解決する」ような方策を選んだのか。東洋のことを東洋で解決しようとしない態度は「我々支那に同情あるものとしても」、「實に遺憾なことである」。「夷を以て夷を制すると言ふ手段に出られたやうで不本意に感じた」と申し出た。
すると王は「淋しい笑」を浮かべながら、「それは、我々も氣づかぬではありません。併し是れは弱き國が有する唯一の武器ではありますまいか」と呟く。
王の「淋しい笑」に対し、不統一な政情にもかかわらず外交交渉に当たらなければならない「支那の政治家の心中には、我々の諒察し難いやうな苦痛のあることであらう」と同情を寄せながらも、鶴見は「また、日本としては、さう思はれても致し方ないことを澤山してゐる。日本自身が眼ざめるまでは、さうさう勝手な理想論を以て、隣國の政治家ばかり惡くは言つてゐられまい」と、“自戒”する。
鶴見は王寵惠を「私は北京に來て、初めて頭のいい人に會つたと思つた」と記すが、ならば王以前に会った胡適も、呉虞も、陳啓修も、周作人も、「大總統徐世昌氏」も、国立北京大学の蔡元培総長も、鶴見からすれば「頭のいい人」ではなかったということか。いくらなんでも、それは失礼なことだろう。だが、鶴見がそう思うのだから致し方がない。
「古い支那を愛する人々は、英語の出來る支那の政治家を馬鹿にする」。だが「新しき支那を愛する人々は」、王寵惠のみならず鶴見が次に会うことになる王正廷のように新しいタイプの「英語の出來る支那の政治家」が「立派に發達して貰いたいと、遠くの方から力瘤を入れて見てゐる」と、鶴見は期待を記す。
文脈から判断して「古い支那を愛する人々」と言い「新しき支那を愛する人々」と言うも、ここに記された「人々」は日本人を指すに違いない。やはり英語の使い手であった鶴見にとって、「英語の出來る支那の政治家」の方が意思疎通が容易だったはずだ。《QED》