――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(6)
鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)
蔡元培がルソーの影響を受けていると考えていた鶴見が「自由、平等、博愛」は「從來のデモクラシーの内容と同一」なのかを問うと、蔡からは「『左樣』と、また鮮やかな返事が來た」。続いて鶴見は「自由、平等、博愛」のような「理知的な思想が、從來の支那にあつた宗�に代わる程の純な情操を、青年の胸中に湧きたゝせることができませうか。」と問い掛ける。すると、「博愛と云ふ文字のうちにある、至純な感情が、それであります」。
何処までも自由を求めれば「國家と申すもの、ことに政府とまをす觀念と、衝突」するだろうとの質問には、「(衝突)致します。國權の擴大は人間自由の制限であります」。
鶴見が「平等とまをすことは、政治に限らず、經濟の範圍にまで及ぶといふお考えでせうか」と踏み込むと、「左樣であります」の一言だった。
その後、「私有財産制度のこと、國家主義が人民の個人的發達に及ぼす惡影響など」について会話が繰り返された後、日本にも「偏狹な國家主義ではいけない、眞實の國際的良心をもたなければいけない」という考えの持ち主が奮闘していることを記憶に留めておきてくれと求め、「眞の國際的良心、即ち人類たる自覺に基いて、初めて、徹底したる、日支兩國の親交が成立するとまをすことを、確信して居るものが、日本に居ると申すことを、どうか先生のお胸にお留めをき下さいまし」と申し添えた。
すると「『承知いたしました』/蔡元培先生は、キツパリと言はれた」そうだ。
「キツパリと言はれた」からといって、蔡が鶴見の考えを全面的に受け入れたというわけではないだろう。その後の歴史を仔細に見ると、どうやら蔡がしめした「キツパリ」という発言は、聞き置きましたという意味だったように思える。
相手の真意、企図、両者の関係に対する見通し、両者を取り巻く客観情勢に対する冷徹な分析などへの洞察を抜きに、相手の発言を自らの希望的観測に合わせて“納得”してしまう。鶴見と蔡元培との遣り取りに、日本人の悪弊を見せつけられたように思うのだが。
次いで鶴見は王寵惠を訪れる。
1881年に香港のキリスト教牧師の家庭に生まれる。一族のルーツを表す「本貫」は深?を挟んで香港と対する広東省東莞である。幼児より学んだ英語が、その後の彼の人生を決定する。1901年に日本に留学し、法律・政治を学ぶ。東京で創刊された『国民報』で英文記者を務めた後に欧米に学び、アメリカのイェール大学法學博士、イギリス弁護士資格取得、ベルリン比較法学会会員など。
ニューヨークで孫文と面識を持ったことがキッカケで、中国革命同盟会に参加。辛亥革命後に務めた主な政治ポストを年代順に示しておくと、外交総長(外務大臣)、司法総長(法務大臣)、ワシントン会議代表、署理国務院総理を経て、常設国際司法裁判所判事など。盧溝橋事件勃発4カ月前の1937年3月に国民政府外交部長に就任し、盧溝橋事件の善後処置に当たる。以後、1941年4月まで、?介石政権の外交政策を担当。国防最高委員会秘書長として、1943年にはカイロ会談に臨む?介石に随行。1945年にはサンフランシスコで開催された国際連合憲章制定会議に?介石政権を代表して参加。
国共内戦に敗北した?介石に従って香港経由で台湾へ。1958年、台北で病死した。
――華々しくも劇的な生涯を送った王寵惠だが、鶴見が訪れたのは1922(大正11)年だから、署理国務院総理を退任した後、常設国際司法裁判所判事就任直前だっただろうか。
鶴見を迎えた「痩せこけた主人は、�地の支那服を着て涼しさうに見えた」。「淺ぐろい細面の顔に金縁の眼鏡」。「どこかに漂ふ、陰氣な表情」。「華盛頓會議で活躍したのはこの人と思はれるほど、音なしいひ弱い所があつた」――これが王の第一印象だった。《QED》