――「只敗殘と、荒涼と、そして寂寞との空氣に満たされて居る」――諸橋(14)
諸橋徹次『遊支雜筆』(目�書店 昭和13年)
長江を遡って南京へ。
南京の街中に半里四方の無住の土地があるが、辛亥革命までは満洲人居住区だった。「今は悉く焦土となつて、殘るは累々たる礎石瓦磚のみ」ではあるが、それというのも「滿人に對する漢人の恨が遂に」爆発し、辛亥革命の際に襲撃されたからだ。辛亥革命が、漢族による満州族王朝打倒を企図した種族革命であった証拠ということか。
「殺風景な宿の一室に閉ぢ籠つて、つくづく南京の現状を頭に浮かべてみたが、映ずるものは只荒廢と荒蕪と丈である」。やはり1911年以来、「革命に續く革命」ではあったが、「その革命は破壞であつた。破壞のあとは荒廢である」。すべて破壊し尽くされ、「江南六朝の榮花は、落日秋風と共に其のかげ」を消え去っていた。
武漢三鎮を歩く。
名勝の黄鶴楼への途中に、「面相恐ろしい乞食に逢つた。眼は赤い、鼻は欠けてゐる。そして手はねんじよの如く、足はゆで章魚の如しだ。それが老翁々々と親しさうに呼びかけて來る。とても堪へられたものぢやない。支那は元來乞食の數が多い」。
漢口でのこと。この街に「無數にゐる乞食は多く蕪湖邊の細民で、年々春雨に種を下してから、農隙の閑つぶしにやつて來ての僞ものだそうだ」。なんと乞食にニセとホンモノがあろうとは。「僞ものの多い世の中には、乞食と曰つても本ものは價値がある」らしい。
乞食の群れを抜け出し漢陽へ。渡し船から降りて車夫と交渉である。「さア此がまた一仕事である。行く、行かぬ、二十錢だ。十錢だ」。「一體うるさいと曰つて、支那の車夫ほどうるさい者はない。だまつて乘ればあとで滅法な要求を出す。要求が通らなければ喧嘩を吹きかける。それがうるさいから始めから約束を結ぶと、まけるまけぬで今の此の騒ぎである」。
漢水を旅する。「驚いたことは、この川に浮ぶ船の多いことであ」り、「その船が殆んど一船毎にに大きさと形と目的を異にして居るから面白い。調べてみると沿岸の四十八村、こゝに四十八通りの船體があるさうだ」。「下る船と上る船とが接近すると、お互に先方の船にとびをかけて引くつぱりあふ。ずるさは面惡いほど巧みのやり方だ」。こう光景から諸橋は、「案ずるに漢水の船は支那國民生活の惡い方面の一縮圖である。雜多で無秩序で、ずるくて汚い」とした。
どうやら「支那の車夫」×「漢水の船」=「支那國民生活の惡い方面の一縮圖」という“数式”が成り立ちそうだ。たしかに「雜多で無秩序で、ずるくて汚い」。だが、あれだけの人口である。「雜多で無秩序」になって当たり前だし、生きていくためには「ずるくて汚い」生き方をせざるを得ないとは思う。
そこで超がつく程に痛切に思う。毛沢東は建国と同時に中国の周囲にグルリと「竹のカーテン」を張って遮断し、「支那國民生活の惡い方面」を外国に出さなかった。「竹のカーテン」の内側で反右派闘争、大躍進、極めつけは文化大革命と大騒動を繰り返したが、一部の跳ねッ返りでオッチョコチョイな政治的過激分子の盲動はみられたものの、全体的に諸外国は痛くも痒くもなかった。毛の先ほどの不都合も被害もなかった。これこそが毛沢東が「竹のカーテン」の外側に施した“大善政”であると、声を大にして言いたい。
ところが、である。今から40年前の1978年末になって�小平は毛沢東の“大善政”に逆らって「竹のカーテン」を取り払ってしまった。対外開放と聞こえはよいが、実態は「支那國民生活の惡い方面」の垂れ流しである。いまや世界は、小銭を持った「雜多で無秩序で、ずるくて汚い」人々に辟易の態だ。何がインバウンドだ。フザケルなッ!《QED》