――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(13)
徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)
「支那人に受けの惡しきこと勿論」だという日本人は、「所謂る制錢商賣、若しくは其の手先」である。この「制錢商賣」について徳富は次のように解説している。
じつは「支那にては、金銀を貯蓄すれば、他より掠奪さらるゝ危險あり」。だが預けるべきマトモな銀行もない。そこで土地を購入するか「穴錢を貯へざるを得ず。穴錢なれば、如何に強盗入來したりとも、奪ひ去る分量は高がしれたるもの也」。彼らは財産を穴あき銅銭として壷に納め土中に蓄えておくというわけだ。そこで日本人が「銅價の騰貴に際して、之を買収し、之を鑄潰して、地金となし、日本に輸出する」のである。「極めて輕便なる採銅法」だから、彼らは「日本人たると支那人たるとを問はず、極めて如何はしき者多く。或は強奪、或は騙詐、或は強請、あらゆる惡辣手段を弄し、此が爲めに日本人の信用を、支那人間に失墜し、併せて一般の日本人に迄、其の惡影響を及ぼし」ている。
制銭によって済南から多くの銅地金が日本に輸出されていた。その結果、「支那人に受けの惡しき」日本人が多く入り込んでいたわけだが、「制錢商賣」が「已に引潮に屬し、今後は正經、著實の業務に從ふ者、愈々増加す可く。乃ち今日は、日本人増殖よりも、寧ろ其の品質改善の時期なるが如し」。そこで登場してくるのが「云ふ迄もなく礦業也」。それというのも「山東より山西にかけて、一大礦床の伏在する」からである。
じつは当時、日本側は青島に布いた民政を鉄道沿線に沿って広げようとしていた。この動きを「實に支那の主權を侵食するなり」と批判する済南の新聞は、「極めて悲憤慷慨の論調を以て、日本政府、及び日本を攻撃しつゝ」あった。徳富が面談したところ、「(支那官憲は)此事に就て、直接觸るゝ所なく、唯日支親善の極まり文句を語りしのみ」。だが、彼らは「北京政府に密電を發して、其の不可を極論したりと云ふは、事實也」。山東省の出先官憲の日本側に対する面従腹背といったところだろう。かくして日本は、支配されながら支配するという彼ら一流の高等戦術に翻弄されてしまうのであった。
徳富は続ける。青島占領以来、山東省における日本の勢力伸長は著しいが、「日本人が山東に於て、頗る人氣の良好ならざるも、亦た掩ふ可らざる事實也」。それというのも「日支双方の誤解による乎、將た他に理由ある乎、何れにしても、眞に日本の威信を、山東に扶植せんと欲せば、我が官民は一大考慮を要す」。
徳富によれば「眞に日本の威信を、山東に扶植」するための「物質的一大要件は、山東鐵道を延長して、京漢鐵道に接續せしむるにある也」。そうしなければ「山東鐵道は、殆んど袋の鼠たるに止まる也」。これをいいかえるなら、「我が官民は一大考慮」をせず、山東鉄道を山東省内の鉄道のままに放置していたら、「眞に日本の威信を、山東に扶植」することはとうてい困難ということだろう。
一転して徳富は「支那に於ける、宣敎師の事業」に関して考える。
宣教師の事業について「其の効果如何を疑ふ者」がいるが、「兎も角も、英米其他宣敎師中に、極めて眞面目に献身的努力を做しつゝあり、且つ大仕掛の經營を作し、且つ企てつゝあるは、見逃し難き現象と云はざるを得ず。例せば北京に於ける精華學校、南京における金陵大學、而して濟南に於ける齊魯大學の如き、其の適例也」とし、実際に見学した齊魯大學の概要を伝える。
この大学は「英國浸禮敎會、米國長老敎會等の、戮協になるもの」であり、広大な敷地に医科、文科、理科、神學科に加え、附属病院は極めて安価な治療費で誰でも治療を受けることができる。「此の大學は未成品にして、(中略)其の建築の如きも、漸次に完成する計畫なり」。徳富を案内した「ブルス氏」は山東省滞在歷30年余とのことだ。《QED》