――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(12)
徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)
上海から鉄路で向った蘇州では「俗惡」としかいいようのない寒山寺を見物した後、留園に向う。園主の盛宜懷は「李鴻章の門下の一人にして、夙に經濟事業に着眼し、招商局の如き、漢冶萍の如き、船舶に礦山に、若しくは製鐵、紡績の類、一として手を出さゞるなし。其の富を致したる一因は、蓋し日本人との、妥協の結果とも云ふを得可し」。
「盛宜懷氏逝きて、上海に殯する一年」の後、その「柩は、上海より著し、方さに明日を以て、本葬式を行はんとする」。そこで徳富は、盛宜懷が贅を尽くして造りあげた留園散策がてら葬式見物に出かけた。先ずは「名刺を出して、案内を請」いて会場へ。
「群衆雜踏、一大祭日の如く、飲食物の屋臺店さへ設けられ、老幼男女、貴賤貧富の往來織るが如し。予等は新設せられたる大牌門を過ぎ、幄舎の中を奏樂にて練り行き。賓席にて喫茶し。更らに僧侶團を貫きて、靈位の前に香を奠せり」。その瞬間、徳富の背後から楽の音に合わせて「號泣の掛聲をなす者ありて、予等の哀情を、挑發せんとする」ようだ。「所謂泣男泣女の類なる可し」。
蘇州から浦口へ。浦口を発ち江蘇省と山東省とを貫き天津に至る津浦鉄道で鳳陽、宿、徐州と北上し曲阜、泰山へ。
「支那旅行中、最も不愉快なる一は、汽車、汽船の昇降の場合也」。それというのも苦力は五月蠅く係員は不親切で、「癪に障らぬものはなし」だからだ。たとえば船に乗った場合、「船の周圍には、乞食船群がり、予等の鼻先に棒を突き出し、其端に袋をぶら下げ、頻りに金錢を投ず可く、強請しつゝあり」。「一船去れば、一船來る。小供あり、老嫗あり、或は若者あり、壮婦あり」。だが「乞食商賈も、一種の營業と見れば、致方なし」というものだ。
「支那旅行に當惑は、南京蟲と乞食」だが、「予は寧ろ南京蟲を以て、忍び得可しとなす也」。いいかえるならば、乞食は南京蟲以下ということだ。
津浦鉄道の一等車での出来事である。「支那乘客の一人、車中の喫烟室にて、硝子窓を明窓と誤り認め、無遠慮に頭を突き出し、落花微塵に硝子を破り、併せて其の面を破りたる抔。彼是笑止の事件」に遭遇した。「支那乘客の一人」はガラスを知らなかったのか。
曲阜では孔子廟へ。
「秋艸枯れは果てゝ、滿目凄凉、唯空しく『大成至聖文宜王墓』の墓碑の立つを見るのみ」だった。「孔子を以て國敎の主となしつゝある支那人が、孔子に對して、何等の神明的敬虔なく、英雄崇拝の熱情なきは、意外と云はん乎、意中と云はん乎」。
ここでも「何れの靈地、名所」と同じく番人が「参詣者に五月蠅く案内料を要求し、貪りて饜くを知ら」ず。こういったことは「頗る孔子に對して、赤面の至り」だろうが、そんなことは平気の平左の日常茶飯事だ。
「孔子の墳墓や、其の子孫の墳墓や、其の宏大巍々たる亨殿や歷代の石碑や、毫も吾人の心を動かすに足らず」。ただ不思議なのは、「革命毎に一切を破壞する支那に、此の如き遺物あるは、是亦た孔子の恩惠たらずんばあらざる也」。
次いで泰山に登った。
「泰山には名物多し」。「第一は石也、全山皆石なれば也」。「第二は牛糞」で、「第三は乞食也。然も乞食は、泰山の身の專有ならざれば、或は廣く支那の名物と稱するも可ならむ」。
泰山を離れ済南へ。同地は「山東省の首都にして、人口二十萬と稱す。獨逸山東經營に就いては、其の要衝たりしや論なし」。日本が青島占領後、済南と鉄道沿線に5千人ほどの日本人が入った模様だが、その過半は「支那人に受けの惡しきこと勿論」とか。《QED》