――「支那人の終局の目的は金をためることである」――廣島高師(3)
『大陸修學旅行記』(廣島高等師範學校 大正3年)
一行は日露戦争激戦地の1つである遼陽を訪ねる。
郊外の畑の中に「露人が戰爭前早くから買ひ取つて壕などを掘つてゐた」広大な場所が数カ所あった。「戰爭の結果當然日本の手に移る筈であつたのが」、日本側は知らないままに放っておいた。そこで「いくら助力してやつても有難がる人間ではない」である「支那人が畑として仕舞つてゐた」。だが、ささいなことから村人が喧嘩を起こし、一方が、ここは日本側の土地だと申し出た。かくて1カ所だけは日本側に帰属することとなったというのだ。この一件から、日本側の手抜かりはもちろんだが、「いくら助力してやつても有難がる人間ではない」などと言いながらも、そういった人々の“セコさ”に乗じられてしまう日本人のお人好しさを示すと同時に、日本側に黙ってればよかったものを、なまじ告げ口をしたことから土地を失う羽目になってしまった“間抜けさ”も示しているようだ。どうやら「いくら助力してやつても有難がる人間ではない」人々はシタタカにセコイと同時に、限りなくヌケテいるようにも思える。
じつは「遼陽には露人が三人商人だと云つて居住してゐるそうである」が、人数は同じだが常に人が変わっている。ということは、どうも純然たる商人ではなさそうだ。そのうちの1人が租借地の境界線を石で印している日本人を笑って、「日本が弱い國であればとにかく、強國である限り木で境界標を建てゝ、その木が朽れば一歩を進めて新しいのを建てる樣にしなくては」といっている。この“助言”を「スラブ人の侵略思想を以て日本人の人心を忖度したものと云ふべもである」としている。
おそらく「スラブ人の侵略思想」が世界の常識であり、租借地を自分から固定化し強国として当然に採るべき領有地拡大方法を自ら封じてしまう日本は世界の非常識ということなる。かくて世界の常識からするなら、日本の振る舞いの“謙虚さ”に何か下心があるのではないのかと、あらぬ疑いをかけられてしまうことになるわけだ。日本人が厚かましいことこの上ない「スラブ人の侵略思想」を身に着けたとしても付け焼刃で終わってしまうのが関の山。ならば「スラブ人の侵略思想」を徹底して学び、それを超える智慧を持つ必要があるが、やはり言うは易く行うは難い。だが、世界は「スラブ人の侵略思想」に充ち満ちていることを固く心に留めておくことは絶対に必要だ。
遼陽の後、奉天を経て朝鮮半島に入り、やがて釜山で乗船し帰国の途に就く。
以上の「旅行日誌(其の壹)」に「旅行日誌(其の貳)」が続く。同じ行程を歩いているから同じような感想が記されていると思いきや、やはり生徒によって目の付け所も受け止め方も違うから面白い。
先ずは上海の名門で知られる復旦大学の前身である復旦公学を訪れた時のことだ。
青々と茂る庭樹と「純支那式の鴟尾高く天に聳えて居る瓦屋根」とを「背景として高く四邊を睥睨して居」る「此の校の設立者で前代の日本――世界の列強の間に新米として顔出した日本――の歷史の上に忘れ難い深い印象を刻むだ李鴻章の像」を前にするや、案内者が「上半身は純金ですよ」と。
そこで目を像の上半身に転ずると、「其の偉大な顔の邊から點々と薄黒くなつて居る」ではないか。どうやら純金はウソで「鍍金らしい」。かくして「凡ての支那の眞相が此の偉人の像の半身に刻みつけられて居る樣であった」と。「此の偉人の像の半身」から「凡ての支那の眞相」を見抜くとは、じつに素晴らしい感覚といっておこう。
道端の乞食の住まい前で道を聞く。彼らは「實は乞食ではなくて田舎からの破産者」の家族であり、「こんな處に引き越して假小屋生活をして居るのである」。《QED》