――「支那人の終局の目的は金をためることである」――廣島高師(5)
『大陸修學旅行記』(廣島高等師範學校 大正3年)
孔子廟に詣でる。やはり荒れ果てたまま。「たとひ世は革り時は遷りても、支那四百餘州はをろか、大八洲の隅々までも其の�に生きて居る幾多の後學があるのに、何故こんなに頽廢に終らせるのであらうか」と素朴な疑問を持った。そして「初めて我幾年の間幾百回となく讀むだ夫子その靈位の前に立つた私は未だ凡ての神社、凡ての佛閣の前に額づいた時に經驗しなかつたやう嚴な敬虔の情にうたれて、二千年前の先聖の靈と交感する樣な氣がした」と感慨に耽る。
だが、この種の思い入れが大間違いの元なのだ。「支那四百餘州」には「其の�に生きて居る幾多の後學がある」わけはないのである。「支那四百餘州」の住人の大多数が『論語』を「幾年の間幾百回となく讀む」ことなどありえない。なぜなら彼らは文字を知らないのだから。じつは1949年の中華人民共和国建国当時の識字率は20%程度だった。ということは20世紀半ばですら、5人に4人は文盲だった。だから「世は革り時は遷りても」、「支那四百餘州」の大多数は孔子など有難くもなんとも感じなかった。であればこそ、孔子廟が「こんなに頽廢に終」っていたとしても当たり前のことだろう。これに対し関帝廟は「たとひ世は革り時は遷りても」「頽廢に終」ることはない。なぜなら関羽は商売繁盛のカミサマだからである。
一行は南京から長江を下って上海で乗船し、「暴風の波路」を北上して大連に向う。師範学校生徒であればこそ、大連では大連第三尋常校、大連公学堂など日本人経営の教育施設を見学した後、白玉山、旅順要塞戦記念館、松樹山砲台、二龍山砲台、東鷄冠山、爾霊山、旅順港など日露戦跡をめぐる。
当時の若者らしく多く激越の字句を綴っている。その凡てを紹介するわけにはいかないので、代表的な一文を示しておきたい。
「あゝ星霜移つて此處に十年。粉砕されて骨は石となり、流れた血潮は草となつたが、此石此草果して何をか語るであらう。滿天玲瓏の月下の露は千古の愁思を此石に宿すこともあらう。名のしらぬ異國の蟲は萬古の後まで喞々の悲號を此草中に捧げるかも知らぬ。實に爾靈山は永久の戰場である。雲暗く風死して沈黙全山を蔽ひつくすときに、亡靈千秋の遺恨は凝つて沈黙の内に阿修羅の叫喚は放たれ、寂寥の裡には鬼笑の啾々たるを響かすであらう」――
こういう文章は声を挙げて読むのがよさそうだとは思う。「滿天玲瓏の月下の露」「千古の愁思」「雲暗く風死して」「亡靈千秋の遺恨」「阿修羅の叫喚」など凡そ大仰な漢詩口調から、なにやら旧制高校寮歌の雰囲気が漂ってくるから不思議ではある。これが当時の若者エリート共通の“述志”というヤツだろう。だが、こんな大仰な言葉が頭の中をグルグルと巡っているから、思考も日本式漢詩文体になってしまうことを考えてもらいたいものだ。
言葉こそ思考の根本である。現実離れした“白髪三千丈式”の大仰な表現に振り振り回されることの無意味さ、いや間違いに気づくべきではないか。
閑話休題。
さらに旧戦場を歩く。遼陽でのことだ。日本兵の「貴い血を以て購つた地」であるにもかかわらず、「今は利に敏い支那人の鋤にかへされ半ば豆が蒔いてある」。そこで尋ねると、「此地は當然日本の有です。然し支那人はこの調子の狡い手段で黙ッて蠶食せられるので殘念ではないかね」と慨歎の言葉が返って来た。
遼陽では県立師範学校と中学校を見学。「博物標品や、理科機械などが輸入日本品である事」を「殊に愉快に感じた」。数年前までは日本人教師を雇っていたとのことだ。《QED》