――「支那人の終局の目的は金をためることである」――廣島高師(6)『大陸修學旅行記』(廣島高等師範學校 大正3年)

【知道中国 1717回】                       一八・四・仲五

――「支那人の終局の目的は金をためることである」――廣島高師(6)

『大陸修學旅行記』(廣島高等師範學校 大正3年)

やがて遼陽の地を離れ、「熱い満洲の日を右頬に受けて長春線の線路を歩」み、「愈深く滿洲の廣野と高粱の美を感じ」ながら奉天へ。清朝発祥の地である奉天でも清朝ゆかりの地を歩くが、その多くが「幾世の風雨に曝されて丹朱も剥げ、柱楹も蟲喰み、黃金色した瓦も落ちて、いたましい程に草が生へて居る」。ここで再び日本式漢文口調の詠嘆の辞に続いて、彼らを案内した「支那通の梅森氏」の「支那人は廢滅と云ふ間際でないと修繕などは加へませぬ」と解説が記されていた。

やはり「支那人は廢滅と云ふ間際でないと修繕などは加へ」ないのである。

2種の「旅行日誌」の後に「第五 敎育状況の一般」「第六 大連中央試驗所参觀記」「第七 通信部報告」「第八 衞生部報告」「第九 會計部報告」「付録一 殖民地敎育と南滿洲(講演要領筆記)」「付録二 殖民地敎育展覧會概況」と続くが、そのなかから興味深い記述を拾っておきたい。

先ず「第八 衞生部報告」の「上海及び南京衞生雜感」から、

「城内は街幅狹く馬車人車等相會する時は實に困難を感ず。道は石を敷きあれどもか甞修繕を加へざれば一凸一凹頗る歩行に難む。不潔なる事は言語に絶し異臭鼻を打ち一たび此地に足を入れば再びするの勇氣なし斯く不潔汚穢のありたけを盡して流行病の傳播せざるこそ不思議なれと思へば決して然らず。コレラ赤痢の流行は珍しからず只支那人市街に隠匿して世に知られざるまでと聞きて尤の次第なりと思へり」――

次いで「第九 會計部報告」。旅行中の諸費用を含めじつに子細な会計報告がなされているが、殊に興味深いのが「會計係所感」だが、そのなかの「支那人と金錢」から以下に引いてみたい。

「支那人の終局の目的は金をためることである。と言えば何だか彼等を侮辱したようであるが實際に於て支那人の大部分はこの金を得んが爲めには如何なる手段をも敢えてするのである」。「思慮の淺い目先ばかりを見る者どもは物を僞り人を瞞かして小利を得ようと」し、「遠き慮をなす者は眼前の利に迷ふことなくよく大局を見とゞけてあくまで忍耐刻苦して目的の貫徹を期するのである、故に支那人の中にはどうしても信用の置けない人間も多いがまた取引等に於て甚だ堅い大商人も少なくないのである」。かくして「何にしても金の儲かる所には如何なる苦しみにも耐へてよく勤めるといふのが支那人の特質」となる。

続いて「支那人と金錢」の視点から辛亥革命と反袁世凱の第二革命を論じている。

先ずに辛亥革命ついては、「其名目は如何にも花々しく支那民族覺醒の聲を聞くようであるが(中略)丸で是れ利慾の輩の暴動である、銃劍や衆力を以て強奪を試みようといふのが彼の革命の動機の一半であるらしい」。

次いで第二革命における反袁世凱勢力が敗北した原因は、「砲の響の威嚇よりも財布のチャランチャランの魅力」が袁世凱軍に「比して遥に劣つて居たからだ」。

総じていえることは、支那三千年の歷史を見れば随分偉い人物も出て居る、併し彼等が率ひる萬衆は皆利の爲めに動くといふ輩であるからしてこれに啗はすに少ない利を以てすれば忽ち背を向けるといふ有樣だ、で彼等史上の偉人物の生涯には波瀾が非常に多く光明の後には必ず暗憺の影の添ふのを見るのである」。

以上は「只觀察見聞によつて痛切に感じた」ことだが、「旅行中尤も五月蠅く感じた」「車夫馬丁の賃錢をねだる事」から「彼等の金錢に對する執着心」を身を以て知っただろう。

やがて廣島高等師範學校を卒業し先生となった彼らが、実際に教室で生徒に接して隣国の状況をどのように教えたのか。旅行中の体験を、必ずや熱く語ったに違いない。《QED》


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