――「支那人の終局の目的は金をためることである」――廣島高師(4)
『大陸修學旅行記』(廣島高等師範學校 大正3年)
上海城内を歩く。
「何よりも先に一種の嘔吐を催す樣な臭氣が鼻を襲ふて來る。支那人を初めて見るヒトの話でも感ずる樣ないやな感がむらむらと起つて、前に進む足も緩むだ」。「(狭い道路を)流れるやうに汚い支那人が通る」。「恰度迷宮を引き廻さるる樣に汚い支那人と肩を擦るまいと掛念して通り行く」と、「(茶楼では)茶を飲むでは南瓜や、西瓜の種の、鹽煮を齧つて終日眠つたり笑ったりして遊むでいる悠長な國民を見ると可笑しくなつた」と綴る。どうやら“汚さ”と“悠長さ”とは、幕末から現在につながる中国人に対する日本人の共通認識のようだ。
南京行きの朝、生徒らにモーニングコールを告げたのは長崎生まれで「九州辯が出て嬉しい十六七歳の女」だった。彼女は「何にもたよりない上海に只一人來て何の苦もなく働いて居る」。それに対し「私等はそれに僅か數百里の海を越えて來て、如何にも天外萬里の異域にでも來た思いをして居るのが耻かしい樣な氣がした」という。「實際日本人は却つて女の方が海外發展する。滿洲なども内地へ入り込む前驅はいつでも滿洲髷に結ひかへた日本婦人だときく」とした後、この生徒は「それがよし可なるにせよ不可なるにせよ、今少し天下を股にかける底の男子――人間到處有青山的青年を要するとは現今の世界に特に必要である」と熱く記す・・・のだが。
上海駅で乗車し南京に向う。
「一つの山さへも見る事が出來ない。稻の海は何百里となく連なつてもう末は空と接して居る。ただ處々に殘された林地は例の墓地らしい。蔚然と繁つて�い影と作つて居るのは皆楊で非常なるものもある。白鷺が長閑に水鏡して居るあたりにまだ愛らしい辮髪を垂した子供が、その赤い水の中で面白さうに水泳をして居るのが見える」と綴る車窓の風景が、やはり日本人にとっての中国、殊に長江下流域の“原風景”といったところだろうか。
やがて南京下関駅着。
「物寂しい停車場に驚いた。故都と云ひながら今少し大きな停車場と思つて居た眼には誠に淋しい小驛である。然し其の間になつかしい日本人の姿を見た」。彼らの宿舎である「旅館、寶來館からの店員と、領事館から出迎へ下さつた巡査榮氏であつた」のだ。「寶來館」は「南京全市でたゞ一軒ある日本旅館」で、「吾々が父と頼むで來た日本領事館」は「南京城内の中央高地に高く日章旗がひらめく。巍然と峙ッた赤煉瓦の建築」である。
南京の各所を散策して、「南京は夢の都である。懷古に生き冥想に蘇るので、一度眼を開けば廢墟、眼もあてられぬ廢墟である」とも、「夜見た南京の街は死の樣な淋しい町であつた。眞晝に見た南京の街は塵と泥棒と汚いがた馬車と、嘔氣を催す樣な臭氣とであつた」とも綴るが、じつは当時の南京は「革命の中心地」であった。それゆえに「枯落の町の間にも?刺たる革命の氣が漲つて居る」。「支那の官憲は鋭意革命抑壓に力めて拔劍装彈の姿は辻毎に見受けられる」。生徒らが泊まる「寶來館」に一行の取り調べにやって来たそうだが、それというのも彼らが「革命に關係でもあるのではないかと疑つ」てのことらしい。
ここでいう「革命」は袁世凱打倒を目指した第二革命のことだが、生徒らを案内する劉さんは「袁世凱は豪いから生存中には或は靜かでも彼が死むだら、第三革命は起らずには居るまい」と語っている。この袁世凱評価については、彼による束の間の帝政復帰と死、さらにはその後の国内混乱までを見据えた時、やはり記憶に留めて置きたい。
郊外へ。「此處にも照りつける百度の日光を石像の影に座つて旅客の合力を求めて居る乞食が居る、支那は至る處で乞食に囲繞せられる國である」。名言なのか迷言なのか。《QED》