――「支那人の終局の目的は金をためることである」――廣島高師(1)
『大陸修學旅行記』(廣島高等師範學校 大正3年)
内藤の『支那論』の刊行と同じ大正3(1914年)の7月19日に広島駅から広島高等師範学校英語部生徒は大陸修学旅行に出発する。他学部生徒何人かを加えた一行は、「上海・南京・滿洲・朝鮮の天地を突破すること三千哩、八月八日、日獨の事漸く急を告げんとするに當りて無事歸校す」。この『大陸修學旅行記』に「収むる所九篇、引率敎官の書簡を除き、他は悉く生徒の筆に成れるもの」である。
彼ら若者が中華民国建国当初の中国社会の姿をどのように捉えていたのか。それを内藤などの見解と比較してみると、専門家と当時の国民の一般的な考え方の違いが浮かび上がってくるようにも思える。また既に読んだ『滿韓修學旅行記念録』(廣島高等師範學校 非賣品 明治40年/【知道中国 1599回~1608回】)と重ね合わせることで、同じ広島高師生徒の目に映った中国社会の変化を知ることもできそうだ。なお、後者の出発は8年前に当たる明治39(1906)年。日にちは偶然にも同じ7月19日であった。
蛇足とは思うが、この8年の間に、我が国は明治から大正へ。一方の中国では清朝が崩壊し中華民国が建国され、さらに袁世凱打倒の第二革命も瓦解している。第1次世界大戦は生徒らが広島駅を発って10日ほどが過ぎ、上海から大連に向う洋上に在った7月28日に勃発している。この戦争に連合国の一員として参戦した日本は、敵であるドイツが中国において権益拠点とした山東省(東洋艦隊基地)の攻略を果たす。やがて大隈内閣による袁世凱政権への21カ条要求に繋がり、日中関係はいよいよ複雑さを増すことになる。
さて肝心の生徒による旅行日誌に移るが、先ずは「其の壹」から始めたい。
広島を発った船が下関、門司を経て上海に着いたのが22日午後。上海を前にした洋上での第一声が、「黃濁を流す揚子江の白波は早くから見えそめました、この美しき光景にこの豐かなる綠の香に美しき國に、暴虐の手を以て萬物を傷はんとする支那人は住んでゐるのである」である。「暴虐の手を以て萬物を傷はんとする支那人」とは、はたして教師を目指した当時の若者の一般的な認識だったのだろうか。激越な表現は、さらに続く。
「東亞の唯一の強大國である日本の後援を却けて無智傲慢にもこれを悦ばぬ、所詮彼が亡ぶべき國であると思はれた賤が伏屋も、宮殿も共に穢はしいこの國の人は揚子江の濁水にいたまされて人とも思われぬその身姿、浴せず梳らず、亡國の民はかくこそあるのである、崇高嘆美の自然の中に生れたる憐れなる奴隷よ、かゝるいぶせき人のためにその麗し光を惜しみ給はなかつた神こそ慈愛の限りではないか」というのだから、さすがに言い過ぎではなかろうかとも思うが、これが当時の「東亞の唯一の強大國である日本」の、しかも教師を目指す若者の見方だと、ひとまずは納得しておきたい。
翌朝、ホテルの窓から街を眺め、「無數の支那人が徃來してゐる、四分の三は裸體で、股引樣のものを腰につけてゐるばかりである」。「果てしなく愚鈍にして汚はしい支那人は矢張日本人の比ではないのである、この獨立自主の人にあらぬ、逸居の輩の國、家危くして兵なく、羊飼は己の腕を以て羊を守らねばならぬ、遠かれ早かれ屬國の苦楚をなめなければならぬかと思われた」。そして、「この怠惰なる國民の間を、英獨佛米の四國の人々の經營は着々歩を状めて、上海の市街は全くこれ等四國の人の勢力範囲圍にあるのだ」と、上海の第一印象を綴る。
船中で一緒だった「支那人の一留學生」が口にした日本では万事に物価高だが「『女だけは安價い』と云った恥ずかしい言葉」を思いだし、それが「上海でも遺憾なく實現せられてゐるそうで笑を賣り、またこれを買う女を客とは日本人が一番多い」ことを知り、「支那人を放肆呼ばはりも出來ないと思つた」とは、若者の掛け値なしの第一印象だろう。《QED》