浅野 和生(平成国際大学教授)
【Viewpoint:2017年7月10日】
20世紀日本の中国研究の泰斗、桑原壽二氏は、香港返還直前の1997年6月27日、「香港返還と日
中関係」と題する論説を発表し、中華人民共和国による香港の吸収を「世界に例のない自由放任の
世界と最後に残った独裁大帝国との両極端の合体」と称した(産経新聞「正論」欄)。
そして香港問題は「結局、中国が香港を中国化しうるのか、返還が中国の香港化への契機になる
か、ならないか」に問題は絞られる、と喝破した。
また桑原氏は、孫文の言を借りて中国民族の性格を「自由の無際限な要求」と規定した。その自
由要求の中国人にとって、香港の自由放任は「一個の理想の天地だった」。
そしてレッセフェール政策で「自由への民族欲」を満喫してきた香港の自由人たちにとっては、
香港の「中国回帰」は、中華人民共和国の規範に当てはまる「人民」にならねばならないことを意
味した。桑原氏は、「何が何でも『人民』化しないと真の返還はありえない」から、人民化への圧
力は「日を追ってじわり高まるであろう」とし、「香港人にとって最もいやな試練が明日に待ち構
えている」と予言した。悲しいかな、この予言は的中した。
ところで、97年に香港の、そして99年にマカオの返還を実現させた中国の、次の目標は台湾の
「祖国」への統一である。香港返還式典から北京に戻った江沢民国家主席は、工人体育場での「祖
国復帰祝賀大会」において、台湾に対して「民族の大義を重んじ(台湾海峡)両岸関係を発展さ
せ、祖国統一の事業に歩みだすよう望む」と呼び掛けた。また、李鵬首相も、人民大会堂での「返
還歓迎の集い」において、一国二制度は、香港とマカオで可能であるなら台湾でもできると述べ、
「どんな困難があろうとも祖国統一を実現できる」と宣言した(産経新聞97年7月2日)。
しかし台湾では、内外記者団を前にした李登輝総統が、香港と同様の方法で海峡両岸の分断状態
を解決できるとすることは「身勝手過ぎる」と中国を強く批判した。この前年、96年3月に直接民
選で再選された李登輝総統は、民主化が進む台湾では、絶対多数の住民が中国の主張する「国家統
一モデルに賛成していない」と述べた(97年7月3日)。
もともと植民地の香港は84年12月、香港人の意思とは無関係に、中英交渉で中国への帰属が決
まったが、台湾は民主国であって、台湾の行く末は台湾2300万人の民意が決める。今日の台湾で
は、自分が台湾人であると考える者58・2%、中国人でもあるが台湾人であるとする者34・3%であ
るのに対し、自分が中国人であるという者はわずか3・4%である。また、独立あるいは現状維持派
が82・3%であって、統一支持派は10・2%にすぎない(台湾の国立政治大学選挙研究センターの
2016年度調査)。
去る6月29日、香港“回収”20周年を前に初めて香港に入った習近平国家主席は、「『一国二制
度』で順調で末永い成功を確かなものとする」と述べ、「中央はこれからも常に香港特別行政区の
経済成長と市民生活の改善を支える」と強調した。1984年9月26日の中英合意には、その第5項に
「現行の社会、経済制度は変わらない。生活方式は変わらない。人身、言論、出版、集会、結社、
旅行、住居移転、通信、ストライキ、職業選択、学術研究、宗教信仰などの権利と自由を保障す
る」とある。この合意は、香港返還から50年、つまり2047年6月30日まで守られることになっている。
しかし、元をただせば「一国二制度」は、1983年6月の●(=登におおざと)小平による「台湾
特別行政区」構想であり、中台統一のための方策であった。その先行事例である香港で成功しなけ
れば、平和裏の台湾統一ははるか彼方に霞(かす)んでしまうだろう。だから、中国が台湾を武力
統一するのでない限り、香港の「一国二制度」は容易に圧殺されることはない。
そして香港では、2014年9月から若者が民主化を要求した「雨傘運動」が79日間も道路を占拠し
たが成果を上げられず、15年には、中国批判の書物を出版した「銅鑼湾書店」の関係者が中国政府
関係者に拉致される事件が起きた。それでも、習近平が香港に降り立つ前日の6月28日には、「雨
傘運動」から生まれた新党「香港衆志」メンバー等30人ほどが中国批判の声を街中で上げた。その
うち20人が当局に逮捕されたが、7月1日には「民間人権陣線」主催の「普通選挙」要求のデモに1
万4500人(警察発表、主催者発表は6万人)が集まり、香港人が容易には「人民化」されない矜持
(きょうじ)を示した。
香港への中国共産党からの政治的圧力は高まっているが、一方の台湾では「台湾アイデンティ
ティー」が時とともに強まっている。それ故、かつて渡辺利夫氏(前拓大総長)が述べたように、
「中台統一の難しさが香港の現状維持を保証する」(「中華世界イメージと香港返還問題」『問題
と研究』1997年11月号)というロジックは、返還20年の今日でも曲がりなりに成り立っている。
「一国二制度」に残された時間は30年、過去20年の変化を顧みれば、香港の中国化ではなく、中
国の香港化の可能性がないわけではない。
(あさの・かずお)