メルマガ「遥かなり台湾」日本と台湾の架け橋になる会 世話人 喜早天
本日のメルマガは故錦連さん(高雄市)の書かれた文章を紹介します。
塞翁が馬
錦連
太平洋戦争は一九四五年(昭20)八月十五日、昭和天皇の玉音放送によって終止符が打たれた。
続いて接収にやってきた国民党政権の無能と汚職、強奪及び風紀の紊乱によって治安は急速に
悪化し、大陸の共産党との内戦にも巻き込まれて経済は大破綻をきたし、五百日足らずで、軍
民の衝突が導火線となって、「二二八」と呼ぶ流血事件に発展した。この事件の詳しい顛末は
後で述べる。
ところで、その事件の少し前に、台湾鉄道史上未曾有の大がかりな切符密売が発覚し、事件関
係者が一斉に検挙された。この事件を憶えている者は、全鉄道従業員を通じても案外少なかった。
その少ないうちの一人がわたしである。この事件の関係者は全部わたしの鉄道講習所時代の級友
たちで、彼らが徒刑の判決を受けて入獄服役中に二二八事件の大惨事が発生した。このことで人
の幸不幸の問題がわたしの脳裏に強く焼き付けられた。
この事件の首謀者H君には、卒業以来一度も会ったことはないが、同案件で逮捕された宜蘭のS
君とわたしは在学中同じ下宿にいたこともあって、刑期を終えて娑婆に戻ったあとも付き合って
いる。もう一人のC君は、出獄後、職が見つからないため、再度最下級の「駅手」に戻り、その
都度試験を受けながら助役に登りつめ、十年ほど前に定年退職した。
最近引っ越しの際、見つかった同窓会名簿の電話にかけてみたら、ご子息らしい方が電話に出て
きて驚いた口調で、父は先年亡くなって、ちょうど一周忌を終えたばかりだという。人生朝露の
如し−時とはこんなものだと感慨を禁じ得なかった。
切符の密売を計画したH君は苗栗県(昔の新竹州)白沙屯の人で、講習所時代はわたしの隣に座
っていた。
駅員を養成する講習所は、日本内地の民間財団法人が運営する私立の夜学校ではあるが、当時の
鉄道部本局内に事務所を構えており、総督府の官庁ではないのに、今の「桃竹苗」(桃園・新竹・
苗栗)一帯から通学できる生徒には通学パスを出していた。わたしのように通学の必要のない中
南部出の者や、宜蘭あたりからの生徒は、みなそれぞれ親戚を頼るか台北市内に下宿した。
H君は通学組で、田舎から来た者らしいうぶで、善良で、健康そうな血色のいい少年だった。
彼は授業が始まると教科書を机の上に広げ、膝の上に別の本を置いて目を通しながら、何やらま
じめに筆記をしている。しかもその筆記は三角定規を器用に回しながら一字一画と丹念に書くか
ら特殊な字形になってしまう。こんな字の書き方をしている人をわたしは後にも先にも見たこと
がない。彼は上の空で講義を聞きながら、実は普通文官試験(専検)を受けるため、勉強してい
たのだ。そして週に二・三回は必ず最後の科目をさぼって、さっさと駅へ向い、早目の列車で帰
ってしまう。
彼は卒業すると本局に残って筆生(小使い兼事務見習い)になり、運輸課切符印刷所に配属され
た。この職務は、全線各駅が窓口で旅客に売る切符を、各駅の需要に合わせて請求してきた数量
通り統一して印刷し、各駅へ分送する。また使い済みの「無効」のゴム印を押された廃札を焼却
する役目を兼ねた。頗る単純は仕事だった。
二年後、終戦になって部内の日本人たちが復員して引揚げたあとになると、彼は自然と古株になった。
彼が普文試験を受けずに、ずっとその部内に居残ったのは、わたしと同様、当時漢文で受験する能
力がなかったからで、諦めざるを得なかったのである。
その彼が奇想天外なことを思いつき、綿密な作業ルールを企画した。それは彼の創見であり天才的
発想であったと言えよう。
彼は密かに先ず大きい各駅の出札掛の同窓を訪ね、その作業の要領を詳細且つ慎重に説明、このチ
ームに加わるよう懇願説得した。その手順は、定期的に本局の切符印刷所(戦後は票據股と改称)
宛てに申請した、長距離の特急や急行列車の分を同じ番号で二揃い印刷する。一揃いは正式に駅の
出札室に発送し、別の一揃いは彼がじきじきに、どこかの食堂で食事をしながら渡し、大事に保管
させる。それを級友が出勤する際、一日の発売数のおよそ半数を、窓口で本物のと、ちゃんぽんに
売る。チームの売り上げは家に持ち帰り、一・二ヶ月毎にH君が回収に来て、公平に山分けする。
彼はその度に「家族にも誰にも絶対洩らさないように」と固く口止めするのを忘れなかった。
これら密売の切符が無効の消印を押され、廃札となって各駅から纏めて票據股に戻ってくると、
彼はその頃はそこの係長になっていたから、それらを添付されてある記録表と照合したあと、
焼却炉で処分してしまう。まさに天衣無縫の工作だとチームの者は思っていたそうだ。
どれぐらいの期間、こういうことをやっていたのか審らかでないが、「好事魔多し」とはこの
ことであろう。
ある日、どこかの駅の改札掛が下車した乗客の切符を机の上に集めて、一枚ずつ「無効」のゴ
ム印を押しているとき、ふと廃札に発着駅名、番号が同じものがもう一枚出てきたことに気付き、
不審に思って、その日の廃札を全部調べてみたら、全く同一のものが二、三枚見つかった。只事
ではないと判断した彼は直ちに上司に報告。駅長は運輸課長に電話をかけ、くだんの物件と報告
書を添えて、旅客科及び関係部門に照会し回答を求めた。これによってこの密売計画は露見し、
主謀者を始め加担者は芋ずる式に検挙され送検された。新聞にもこの事件は報道されたが、その
確かな経緯と連坐した者の人数は明らかにされていなかったから、些細な波紋として、月日が経
つとともに忘れられてしまった。
何年か経った。ある夕方、同窓のK君が突然、私の電信室に入ってきてわたしを外に呼び出した。
今到着した列車の最後部に連結してある荷物車から下ろした物を第一ホームの片隅に置いてあるか
ら、それを一緒に運んでくれないかと言うので、ついて行ってみると、六ケースほどの「南港肥 」
(洗濯用石ケン)がホームの片隅に積まれてあり、これを暫くきみの電信室に置かしてくらないか
との頼みである。二つ返事で承諾すると早速部屋へ運んできて置くや、一息入れるのも惜しいよ
うにせかせかして、今これを市内の雑貨店へ担いでゆくから、話はあとでしようと言うなり、
1ケース20キロはありそうなのを二つ、ひょいと肩に載せ事務所を抜けて広場へ出て行った。
私はモールスで他の駅と通信中であったから気付かなかったが、一時間ほど経つと三回に分け
て運び終えた彼が、汗だくで帰ってきた。すすめた茶を飲むと、すぐ次の車で台北へ帰ると言
い出した。折角きたんだから今夜は泊まっていけと駅近くの家へ誘って行った。労働者のように
黒く汚れている鉄道の制服姿はひどく惨めに見えた。風呂に入ってから食事をしようというのを、
着替えを持っていないからと断って夕食を共にとった。そしてやはり今日のうちに帰りたいとい
うので、一緒にまた駅へ向かった。
彼K君も切符事件に加担して検挙され、刑期を終えたひとりである。
古い鉄道の制服をつけている彼なら、後部車輌に荷物積ませてくれと頼めば、当時の車掌は大概、
同じ釜の飯を食っているという仲間意識から、何かと便宜をはかってくれる。彼にとって乗車券
も買わずにすむし、荷物の運賃も節約できる。
一緒に待合室へきて車を待っている間、わたしはこの級友の惨めな有様に堪えなくなって、彼の
肩を叩き、慰めと励ましのつもりで、
「K君!人間、長い人生でふと何かの間違いをしでかすのはよくあることだよ。ちょっと躓いた
ぐらいで気を落としたり、すっかり駄目になることもあるまい。元気を出して頑張ってくれ!」
と思わず言ってしまった。ところが意外にも、彼は顔を輝かせて、朗らかな声でこう答えた。
「ありがとう!金連君!ぼくは少しも気を落としていないし、嘆いたりもしていないよ。ぼくは
むしろ今の境遇を心から喜んでいるくらいだ。毎日嬉しく幸せな気持ちでやっているから安心し
てくれ!第一、ぼくはそれこそ本当に死の一歩手前で命拾いをしたんだからなあ」
彼は満面に笑みを浮べて、全く思いもよらないことを悲しげに話し出した。
「全滅!本当に全滅だよ!金連君、八堵の駅員の全部が皆殺しにされたんだ!その中で監獄に
いたぼくだけが助かったんだ」
話の途中で彼の顔から笑いが消えた。彼の体はブルブル震え、異常な亢奮で次第に激情に駆られ、
ポタポタ落ちる涙で、日焼けした顔はしわくちゃになった。
わたしはショックのあまり返すことばもなかった。慰めてよいのか励ましていいのかわからぬ
まま、わたしたちはただ両手を固く握り合って別れた。
以来六十年も経っているが一向にK君の消息がない。
話はここで一応終わるが、わたしにとって今一つ釈然としないのが二二八事件である。
冒頭に書いたこの事件は、日本の敗戦によって台湾は祖国中国の接収するところとなり、全島
民は「光復」という熱狂の中で国民党政権を歓迎したが、台湾人の期待を裏切り、想像もでき
ない複雑な因果によって、経済の大破綻、治安の急速な悪化から、軍民の衝突が各地で頻発、
大陸からの難民の大量流入も絡まって、暴政に堪えられなくなった台湾人民が民主と自治を
要求して大蜂起したのである。
事件当初、一週間ぐらいの間、外省人は各地で普遍的に殴打され、K君のいた八堵駅でも民
衆に追われた中国兵が駅内に逃げ込むが、駅員はこれをかばったあとで、部隊に送還するほ
どの手を尽した。だが事態の収拾がつかなくなった国民党政権は鎮圧のため、急遽大陸から
二箇師団を派遣し、上陸と同時に見さかいもなく民衆に発砲、逮捕して虐殺した。
三月十一日の朝、中国兵がトラックで八堵駅に現れたとき、その中には先日駅員がかばった
兵士もいたのにも拘わらず、駅内に乱入すると、当日の出勤者全部をホームに引き出して
んだまま一列に並ばせ、その場で銃殺した。次に非番者を捜し出し、今度は駅長ともども
トラックにのせて連れ去った。生死のほどは今に至るも尚不明のままである。もう一人の
制服を着けた駅員は路上で捕まり、数日後、鉄線に縛られ、死体となって基隆港内に浮上
していた。
八堵は重要な中継駅である。基隆と台北、中南部へ赴く者の通らねばならぬ駅であり、炭
鉱の多い平渓線及び蘇澳まで十幾つかの駅で乗り下りする旅客や物資の経由する地点であ
るから、当日の緊急事態突発のため、八堵駅は機能できなくなった。列車は運休につぐ運
休で混乱した。鉄路局は急ぎ幾つもの駅から人員を召集し、お互いに見知らぬ顔ぶれの従
業員をそろえて対処した。
さて、終戦の翌日、台湾総督安藤利吉はラジオ放送で全島民に鎮静を呼びかけたが、台湾
の権門・紳士豪族ら三十余名は台湾軍参謀中富悟郎・牧沢美夫と草山(今の陽明山)に集
まって謀議をめぐらし、独立を画策した。台湾自治草案なるものを議定した。こんなこと
が実現される可能性はなかっただろうが、当時台湾に残っていた数十万の日本軍は無傷で
あったから、その気にさえなれば、輸送手段に乏しい中国軍の上陸接収を阻止するのはた
易いことであったと思う。こうして、もたもたしているうちに、GHQ(マッカーサーを
司令官とする連合国軍最高司令部)が乗り出してきて、暫時、台湾を同盟軍の共同管理の
下に置き、時機が成熟して公民投票を行い、台湾の去就を決定することができるはずだ−
と踏んでいた。
しかし、安藤総督の絶対禁止に遭い、折角の計画も水泡に帰した。総督には在台日本軍と
居留民を安全に復員させなければならない重大責任を負っていたからだと言われている。
この急変をみて、主謀者たちはすぐさま代表を上海に送り、台湾省長官公署の長に就任
することになった陳儀に面謁し、台湾接収を歓迎した。かくもめまぐるしい活動は三週
間のうちに行われた。驚くべき立ち回りの速さである。
国民党政権の接収後五箇月、台湾行政長官公署は「台湾漢奸総検挙規定」を公布し、独立
運動の企画に連判した者は悉く捕えられ、台北の東本願寺高級戦犯看守所に収監された。
そして約一年余の夏に、戦犯軍事法廷の判決を受け、共同首謀者とみなされた二人は、
それぞれ二年二箇月と一年十箇月の徒刑に服することとなり、他は無罪として放免された。
彼ら、H君K君の場合と同様、独立未遂事件の関係者たちの監獄中に、あの悲惨な二二八
事件が起き、多くのエリートや士紳たちが殺害された。若し彼ら二人がこの期間、獄中に
いなかったら、あるいは二二八事件に捲き込まれ、命を取り止めることはできなかったで
あろう。
判決を受けたときの模様を史家はこう誌している。
「両人とも談笑自若、心からこの判決に満足している様子であった」と。
この二つの物語には何ら因果関係はないが、結末があまりにもかけ離れすぎているので、
長い間、わたしの頭にこびりついていて、ついつい思い出してしまう。
K君の場合は、大時代の小人物の小事件でしかない。一方、未遂に終った台湾独立運動は、大時代の大人物の一世一代を賭けた大決断である。前者は駅長・助役を含め押送されてこの世から消えた者八名、現場や線路を逃げ走る駅員及び荷役作業員を入れて合計二十数名が惨殺されるという災難を招いたが、後者はその迅速な危険処理のすぐれた手腕により、以後は各界と誼みを結び、権門と積極的に親交を深め、当局の覚えめでたく、二代目三代目にわたって栄華を極め今日に至っている。
「人間万事、塞翁が馬」と古人は言った。むべなる哉である。
註・・・
筆者は機会あるごとに台湾史の研究家や、事件に連坐して辛くも生き残った先輩たちに質し
た結果。事件中とその後の「清郷」(しらみ潰しの清蕩)で殺害された者は二~三万人に達
した。これがほぼ確実に近い数字だというのが定説になっている。これに続いて一九四九年
五月一日、四六学生事件後発効した三十八年間に及ぶ軍事戒厳令下で、馬場町に於いて処刑
された者及び火焼島に送られて長期の刑の終らないまま死亡した者は含まれていない。これ
に責任を負うべきものは、まだ誰も処罰を受けていない。
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