「NHKスペシャル」の偏向にお怒りの皆様へお願い
「NHKスペシャル|シリーズJAPANデビュー」の第1回「アジアの“一等国”」(4月5日放映)は日本の台湾統治を徹底批判し、その傍証として台湾の老世代に歴史証言をさせ、日本への恨みの部分だけを強調し、歴史事実を大きく歪めています。
そこで下に番組の動画と文字起こした全内容を掲載しますので、これらを参考にして「歴史事実に反する部分」「疑問のある部分」等をメールでNHKに指摘や質問をしてほしいのです。
NHKは番組内容を正当化するため、事細かな説明回答を行ってきます。そうしたら「質問」と「回答」のメールを台湾の声編集部までお送りいただきたいのです。
なにとぞよろしくお願いいたします。
台湾の声編集部
NHKへのメール送付先 http://www.nhk.or.jp/special/
台湾の声編集部 taiwannokoe@googlegroups.com
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【動画】これが偏向NHKスペシャルの全内容
以下の動画(1〜4)は4月5日に放映された問題の偏向番組「NHKスペシャル|シリーズJAPANデビュー」(第1回アジアの“一等国”)の全内容だ。ただしサブリミナル効果が指摘されるオープニングのタイトルバックは収録されていない。
1 http://www.dailymotion.com/video/x8xz8g_yhkyyyyyy-yyyyjayanyyyyy-y-1y-yyyyy_news
2 http://www.dailymotion.com/video/x8xzfh_yhkyyyyyy-yyyyjayanyyyyy-y-1y-yyyyy_news
3 http://www.dailymotion.com/video/x8xzox_yhkyyyyyy-yyyyjayanyyyyy-y-1y-yyyyy_news
4 http://www.dailymotion.com/video/x8xzsv_yhkyyyyyy-yyyyjayanyyyyy-y-1y-yyyyy_news
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【文字起こし】これが偏向NHKスペシャルの全内容
NHK「JAPANデビュー」全内容文字起し
(ブログ「夕刻の備忘録」より転載)
【転載歓迎】NHK「JAPANデビュー」全内容文字起し-Part.1
http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-104.html
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★オープニング
JAPANデビュー
未来を見通す鍵は歴史の中にある
世界の連鎖が歴史をつくってきた
150年前 世界にデビューした日本
私たちはどう生きた そしてどう生きる
NHKスペシャル シリーズJAPANデビュー
第一回 アジアの“一等国”
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★今の横浜港の風景
語り・濱中博久:
――今から150年前、西暦1859年、ここ横浜の港から、日本は世界の荒海に船出しました。長年の鎖国を解き、自由貿易を開始、西洋列強を目標に、日本は近代化の道を歩み始めます。
1859年、ジャパン、世界デビュー。
それから60年後、第一次世界大戦で戦勝国となった日本は、世界の一等国に登り詰めます。しかし、1945年、太平洋戦争に敗れ、日本は焦土と化しました。日本は何故坂を転がり落ちていったのか。開港から敗戦までの変遷を辿るシリーズ、「JAPANデビュー」第一回のテーマはアジアです。
――日本の南西に位置する台湾。ここは日本の最初の植民地と成った場所です。近代日本とアジアの関わり、その原点はこの地にあります。毎年秋に行われる道教の祭り、台湾の住民のほとんどは中国大陸から移り住んだ「漢民族」です。日本は太平洋戦争の敗戦まで、50年間に渡り台湾を支配しました。台北市の公園に、日本の統治時代を生きた台湾の人々が居ました。
★公園の風景
「当時の大日本帝国軍人。一万二千八百隊×××宜しくお願いします(敬礼)。死に損なった日本兵ですよ。あのですね……」
――太平洋戦争当時、台湾の青年達は日本軍の兵士として、戦場に駆り出されました。
「日本男児と生まれ来て、戦の場(にわ)に立つからは名をこそ惜しめ武士(つわもの)よ、ハハハ……」
「守るも攻めるもくろがねの浮かべる城ぞたのみなる(以降、数名で合唱)。仇なす国を攻めよかし」
――日本は台湾の統治に力を注ぎ、この島を足がかりに、アジアへと勢力を拡大しました。半世紀の及ぶ統治で、日本は台湾の人々に、日本語をはじめ、日本精神を叩き込んでいきました。そして、太平洋戦争中、およそ21万の台湾人を、日本軍に入隊させ、次々と戦場に送り込みます。
台湾は日本のアジア支配、大東亜共栄圏の基点となっていきます。日本の傀儡国家、満州国、ここに五千人を越す台湾人が移り住みました。台湾の人々は、満州国の役人や技術者となり、日本の支配を支えました。太平洋戦争勃発後、日本が占領したインドネシア、台湾での統治経験を活かし、人々に日本精神の体得を強制していきます。
★授業中の風景(少年の声)
「私たちはどんな苦しいことでも我慢して力一杯働いています。あのアメリカやイギリスや、オランダに負けてはいけないと思うと、どんなことでも苦しくありません」
語り・礒野佑子:
――日本のアジア支配の原点となった台湾。そこから近代日本とアジアとの関係が見えてきます。50年間の日本の台湾統治を象徴する、二枚の写真です。「人間動物園」、そして「台北第一中学校の生徒達」。
――台湾の先住民族です。およそ100年前、日本は彼等をロンドンに連れて行き、博覧会の見せ物として展示しました。この写真には世界にデビューした日本が、一等国へと登り詰めるまでの歴史が秘められています。
語り・濱中博久:
――日本が開港して間もない19世紀後半。西洋列強が注目していたのは、台湾でした。当時、イギリスやフランスなど列強は、アジアに狙いを定め、競い合って植民地を獲得していました。台湾は列強にとって地理的に重要な場所でした。台湾を基点に中国大陸へ勢力を拡大しようと目論んでいたのです。フランス外務省に残された資料(1895)です。
「イギリスやドイツが台湾を獲得しようとする動きがある。彼らが台湾を侵略するのなら、フランスは何らかの行動をとる」
――列強の植民地奪い合いの最前線となった台湾。その台湾を領有したのはジャパン、日本でした。日清戦争に勝利した日本は、台湾を獲得します。この台湾領有の背景には、列強のアジア進出に関する日本の危機感がありました。世界の植民地を研究しているパスカル・ブランシャールさんです。
フランス歴史学者・パスカル・ブランシャール:
「日本を開港させたのは、アメリカの軍艦でした。またフランスは東南アジアのベトナム、カンボジア、ラオスを植民地化し、中国南部にも勢力を拡げていました。フランスの軍部では、日本の植民地化も議論されていたほどです。そこで日本は植民地化されない国になるため、欧米列強に倣い、自ら植民地を持つべきだと考えたのです」
――明治政府が外交上の指針としたのは、西洋列強の間で定められていた国際法、萬國公法です。ここには国のランクが示されています。世界の国々は、一等国、二等国、三等国に分かれている。一等国とは、イギリスやフランスなど、ヨーロッパの五大国である。三等国は他国の意のままになる。日本はこうした世界観を持つ西洋列強と向き合わねばなりませんでした。
日本は防衛ラインを拡げるため、アジアへと進出、日清戦争に勝利した1895年、南の要として台湾を獲得したのです。同じアジアである台湾を、最初の植民地としました。現地統治機関、台湾総督府を置きます。当時の首相、伊藤博文は、台湾の統治が一等国を目指す日本の命運を握っていると考えていました。
「台湾の統治に失敗すれば、日の丸の御旗の光が失墜する(伊藤博文)」
――初めての植民地を、日本はどのように統治したのか。その詳細を知る手掛かりがあります。台湾総督府文書です。日本内地の行政文書は、太平洋戦争の終結直前に、多くが焼却されています。台湾総督府文書は、統治の実態を明らかにする貴重な資料です。台湾領有から敗戦までの50年間の記録は、二万六千冊に及びます。
総督府は、衛生、教育、軍事、民生、警察など最大で二万七千人の官僚を抱える巨大な組織でした。日本は統治に力を注ぎます。しかし、領有直後から問題が噴出します。
漢民族としての伝統や誇りを持つ台湾人が、日本の支配に対して激しい抵抗運動を起こしたのです。台湾中部、雲林に暮らす邸順意(74)さん。邸さんは親類達から、住民が武器を取って日本軍と戦った様子を伝え聞いています。
「(字幕)日本軍は川の下流から来ました。台湾人は川の両岸で待ち構えていました。山の中にも潜んでいました。日本軍を取り囲んで射撃したのです。しかし日本軍の攻撃はすさまじく恐ろしかったと聞いています。このあたりの川は、死者の血で真っ赤に染まったといいます」
――武力で制圧しようとする日本軍に対し、台湾人の抵抗は激しさを増していきます。戦いは全土に拡がり、後に「日台戦争(1895)」と呼ばれる規模に拡大していきました。戦いによって、台湾の宝といわれる重要な産物が被害を受けます。クスノキから作られる「樟脳」という物質です。台湾の樟脳は、世界のシェアのおよそ七割を占め、西洋列強から注目されていました。
語り・礒野佑子:
――19世紀後半、イギリスでは樟脳を使ってある製品が作られていました。当時、新しい素材として爆発的に普及していたセルロイドです。様々な生活用品に使われる万能の合成樹脂でした。
科学博物館学芸員:
「セルロイドは美しい素材としてとても人気がありました。真珠の代わりとしても使われました。これはビクトリア女王の即位75周年に使用されたものです」
――樟脳は軍事面でも需要がありました。スウェーデンの科学者、アルフレッド・ノーベルです。1887年、ノーベルは樟脳を使い新しい火薬を発明しました。煙の少ない無煙火薬です。無煙火薬は相手に居場所を探られにくいことから、世界中の軍隊で使われるようになります。世界に広く輸出されていた台湾の樟脳。しかし、混乱する日本の統治下、樟脳工場は次々と操業を停止していきます。
★背景・旧イギリス領事館(台湾)
語り・濱中博久:
――行き詰まる日本の統治を、台湾のイギリス領事館は冷徹に観察し、本国に報告していました。日本が台湾を領有した翌年、1896年の報告です。
「数ヶ月前には価値のある重要だった樟脳の産地が、日本の統治によって永遠に廃墟になってしまった」
――フランスもまた、日本に厳しい評価を下していました。
「非常に素晴らしい島が、まったくの未経験者に支配された。極めて残念なことだ」
――日本の台湾統治を研究してきたマーク・ピ−ティー(スタンフォード大学客員教授)さんです。
「日本は自らの植民地統治を、未熟だと認識していました。しかし一方で、ヨーロッパの植民地大国であるイギリスやフランスに、自分達には統治能力があることを示したいと考えていました。ですから、台湾統治の結果は、日本にとって大変重要でした。日本は台湾を自らの能力を見せるためのショーケースにしたかったのです」
――台湾統治を成功させ、一等国を目指す日本。しかし、統治の方法を巡り、政府内で大きな混乱が起きていました。原因の一つは、明治政府が作った憲法にありました。台湾領有の六年前に発布されたこの憲法には、植民地の規定が記されていなかったのです。明治憲法の下では、日本の領土に生きる人は、みな天皇の臣民であるとされました。これに従えば、日本が領土とした台湾の人も、天皇の臣民となります。しかし、民族も習慣も異なる台湾人を、臣民として日本人と同様に扱うべきか、議論が起きます。
――日本は世界の二大植民地大国、フランスとイギリスを参考にします。フランスがアルジェリアの統治で掲げたのは、同化政策でした。フランス国内と同じ法律をアルジェリアにも適用し、フランス国民として生きるよう求めました。
一方、イギリスの植民地、インドの統治は対照的なものでした。イギリスは、イギリス人とインド人を明確に区別し、現地のみに通用する法律、特別法によって統治しました。
日本の下した結論は、いわば、フランスとイギリスの折衷案でした。台湾人を、日本人と同じ天皇の臣民と位置付けながら、台湾のみに通用する特別法を定めたのです。
【転載歓迎】NHK「JAPANデビュー」全内容文字起し-Part.2
http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-103.html
――台湾領有から三年後、一人の官僚が台湾に着任し、統治の改革に乗り出します。総督府ナンバー2の民生局長、後藤新平です。後藤は、台湾全土の調査を行います。臣民と位置付けられた台湾人の実態を、把握するためでした。
台湾には漢民族の他に、パイワン族をはじめ、14の先住民族が暮らしています。先住民族が暮らす山間の地域は、樟脳の産地に近いことから、治安の安定が一際重要でした。後藤は、先住民族の村々に自ら足を運びます。そして、日本からは、人類学者や法律の専門家が入り調査をします。台湾総督府文書の中に、先住民族の調査報告書が残されています。
国史館台湾文献館研究員・陳文添:
「(字幕)これは当時、台東地域で生活していた先住民族です。顔の入れ墨や使用していた武器もきめ細かく描かれています。この民族には首狩りの習慣がありました」
――後藤が語った言葉があります。
「ヒラメの目をタイの目に変えることはできない。台湾人を日本人に変えることは難しい」
――風習や文化が異なる台湾人を、臣民として日本人と同じ法律で統治していくことは、困難であると判断します。後藤は、台湾のみに適用される法律、特別法を駆使していきます。先ず手を着けたのは、住民の抵抗運動を抑えることでした。後藤が考え出した条令、匪徒刑罰令です。日本内地ではあり得ない厳しいものでした。略奪、殺傷のみならず、建物や標識、田畑を破壊した者は死刑。未遂であっても同罪とする。総督府警察が、匪徒、犯罪者と見倣せば、たとえ未遂でも死刑に処せられました。
――匪徒刑罰令によって死刑になった台湾の人々です。条令施行後の五年間で、三千人に達しました。日本統治への抵抗を根絶させるため、後藤は台湾人の協力者を取り込んでいきます。柯(か)徳三さん、87歳。柯さんの祖父は、日本の統治に協力した一人でした。祖父・秋潔さんです。一家は中国福建省から移り住んで来た漢民族でした。秋潔さんは逸早く日本語を学び、日本の統治下で生きていく決意をします。
柯徳三(日本語で語る):
「金の無い貧乏の農民として、私たちの祖先ですね。渡って来たその祖先達はね、この土地で経営して、田畑を植えて生活しているのに、いまさら大陸に戻ったら何も出来ない。びた一文無い。だから結局、帰れない」
――地区のまとめ役だった秋潔さんは、住民を監視し総督府に報告する役割を担わされました。後藤は、秋潔さんのような人物を組織化していきました。
柯徳三(日本語で語る):
「あの住んでいる住民達をね、一人でも漏らさないようにコントロール出来る訳だ」
NHKスタッフの声:「周りの人達からどう思われていたんですかね?」
「周りの人達は恐らく、僕ら少年の時は、ああいうこと、分かりません。大人になってから後で考えたらね、恐らくあんたは、日本人の走狗(手先)だ、日本人の人に使われとった奴隷だ、そういう考え方やっとったかもしれませんね、ああ」
――後藤は、日本人児童が通う小学校とは別に、台湾人児童が通う公学校を開設、統治に必要な日本語の初等教育を始めます。柯秋潔さんは、公学校の日本語教師も務めます。日本の統治に協力してきた秋潔さんは、息子の文徳さんを、日本人が通う小学校に入学させます。それまでの功績から、通学が認められると考えたのです。しかし、このことが総督府で大問題となります。台湾総督府文書に、小学校校長の報告書が残されていました。
「台湾人子弟在席の事件、柯文徳という台湾人が、学校内にいることを発見しました。
誠に恐縮なことでありまして、直ちに退学を命じました」
――後藤は全ての学校に通達を出します。
「台湾人の児童と日本人の児童は教育の目的が異なる。こうした規則が徹底されなければ、統治の目的は永久に達せられない」
――退学させられた、柯文徳さんは、徳三さんの父親です。
柯徳三(日本語で語る):
「もしこれを許せば、総督府がこれを許せば、小学校にどんどん台湾人が入るかもしらんと恐れたんでしょ、つまり、課外の民である台湾人を日本語教育するために、公学校というのをこしらえたんだから、おまえらしゃべることに事欠かず、普通の生活に事欠かない程度の日本語を覚えればそれでいいんだ、そういうつもりなんでしょ」
――後藤は、統治の基礎を固めながら、台湾の宝である樟脳産業の立て直しに着手します。生産現場を管理し、労働者への指導を徹底します。
元樟脳工場労働者・許雲集(91):
「(字幕)一カ所でクスノキを切り終わったら、すぐ別の場所で働けと命じられました」
★キールンの風景
――樟脳貿易の拠点となった港、キールン(基隆)。後藤は、自ら陣頭指揮を執り、小さな入り江だったキールンを、大型船が入れる港に作り替えました。南北400キロを結ぶ縦貫鉄道を建設、樟脳の輸送ルートを確保しました。
総督府は、樟脳の販売を独占します。後藤が赴任した二年後には、樟脳の事業は赤字を解消、現在の価値で、年間およそ100億円の収入を上げるようになります。
「台湾十年間の進歩」、後藤の時代に台湾総督府が出版した欧米向けのパンフレットです。そこでは、台湾が金のなる島になったことをアピールしています。台湾を急速に発展させた日本には、一等国の資格があることを強調したのです。イギリスの商社にとって、台湾の樟脳は重要な貿易商品でした。後藤の改革により、樟脳が安定的に供給されるようになったことを、イギリスは歓迎します。
「日本の政策によって我が国にも多大な利益がもたらされることになる。今後半世紀にわたり台湾の樟脳は、世界中に供給されるであらう」
――台湾領有から15年後の1910年。日本は、統治の成果を世界に示す絶好の機会を得ます。ロンドンで開かれた日英博覧会。日本とイギリスの友好関係を祝う催しでした。近代国家として坂を駆け上ってきたジャパン。会場では日本の産業や文化が幅広く紹介されました。訪れた観客はおよそ800万人。特に人気を集めたコーナーがありました。台湾の先住民族、パイワン族。日本は、会場内にパイワンの人々の家を作り、その暮らしぶりを見せ物としたのです。
――日英博覧会のガイドブックです。そこでは、台湾の人々が、客の前で戦いの踊りをし、戦闘の真似事をすると記されています。当時、イギリスやフランスは、博覧会で植民地の人々を盛んに見せ物にしていました。人を展示する、人間動物園と呼ばれました。日本はそれを真似たのです。
フランス歴史学者・パスカル・ブランシャール:
「当時、西洋列強には、文明化の使命という考え方がありました。植民地の人間は野蛮な劣った人間であり、ヨーロッパの人々は彼らを文明化させる良いことをしている、と信じていました。それを宣伝する場が、人間動物園だったという訳です。この時代、日本もまた、世界には民族の違いに基づいて、階層があると考えるようになりました。そして、自分達は階層の頂点にあり、その下にアジアの他民族がいる、そうした世界観がハッキリと根付いていったのです」
★台湾南部、高士村の風景
――台湾南部、高士村。パイワン族が暮らす村です。およそ100年前、日英博覧会に連れて行かれたのは、この村の出身者でした。
――博覧会の会場で売られていたパイワンの人々の写真です。裏には、高士村から来た、と記されていました。展示された青年の息子、許進貴(85)さん。そして娘の高許月(79)さんです。父親の名は、チャバイバイ・プリャルヤン。チャバイバイさんは生前、博覧会のことについて子供達に語ることはありませんでした。
高許月:
「(字幕)悲しいね。この出来事の重さ語りきれない」
その横から声(日本語):
「悲しいね、語りきれないそうだ。悲しい、この重さね、話しきれないそうだ」
語り・礒野佑子:
――ヒラメの目をタイの目に変えることはできない。後藤新平は、独自の法律で抵抗運動を抑え、樟脳産業を立て直しました。日本は、台湾統治の成功を誇示し、世界に一等国入りをアピールしました。その後の台湾統治を象徴する一枚の写真。「台北第一中学校の生徒達」。台湾人に日本の文化を叩き込み、民族性まで奪っていった歴史が秘められています。
【転載歓迎】NHK「JAPANデビュー」全内容文字起し-Part.3
http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-102.html
語り・濱中博久:
――1914年、日本の台湾統治に大きな影響を及ぼす戦争が起こります。第一次世界大戦です。日本はこの時、イギリス側に立って参戦、戦勝国の一員となります。1919年、パリ。第一次世界大戦の戦後処理を話し合う、パリ講和会議が開かれました。日本は、この国際会議に、イギリスやフランスなどと並んで、初めて五大国の一つとして招かれます。64人の大代表団を送り込んだ日本。ジャパンは、遂に列強から一等国と認められたのです。この時、アメリカ大統領ウィルソンの発言が、世界の植民地に大きな影響力を及ぼしていました。民族自決主義、それぞれの民族が、自らの運命を決定する権利を持つという考え方です。
語り・礒野佑子:
――ヨーロッパでは、民族自決主義に基づいて、ポーランドやチェコスロバキアなどが独立を果たしていきます。民族自決主義は、アジアの植民地にも火を点けます。民衆に呼び掛けるインドの指導者ガンジーです。ガンジーは、イギリスの統治に対抗し、非暴力不服従運動を展開していました。フランス統治下のベトナムでも、民衆の抵抗運動が始まります。そうしたうねりは、ホーチミンでの武装闘争に発展していきます。
日本が統治していた朝鮮でも、独立を求める激しい抗議行動が起きます。「三・一運動」です。市民がデモを繰り返し、朝鮮総督府の警察部隊と衝突、多数の死傷者が出ました。そして台湾でも、日本の統治に異議を唱える運動が始まります。
語り・濱中博久:
――蒋松輝さん、96歳。蒋さんの父親は、民族運動を率いた一人でした。当時は、病院を経営する医者でした。
蒋松輝(日本語で語る):
「向こうに見える義美というお菓子屋。あそこは親父の病院、大安病院の跡です。上は初めは病室だったけど、後は全部、運動の集会場になった。だからまあ、あの当時の民族、自覚運動の本拠地だったんです」
――父・蒋渭水です。蒋は、武装闘争ではなく、出版や講演会などの言論を通じ、民衆に民族意識に目覚めるよう呼び掛けました。
蒋松輝(日本語で語る):
「警察は民衆の中に入って、入り込んでいるから、誰がどういう思想を持っているか、一目瞭然だ。だから、できる、できるはずはない。武装闘争できるはずない」
――台湾議会設置誓願運動。台湾住民から成る議会を設置し、法律と予算を審議する権利を要求しました。いわば台湾人の自治を求めたのです。1921年、日本の国会に台湾議会設置のための請願書が提出されます。この時、日本は世界の民族自決の潮流と逆行します。首相・原敬は、議会で自らの統治方針を語りました。
「台湾の全ての程度に応じて内地の法律を施行する」
――原が進めようとしたのは、同化政策です。法律上、台湾を内地と同様に扱うことで、民族運動を収めようとしたのです。原が示した方針に対し、議員から疑問が投げ掛けられます。
「フランスでは同化政策を採用していたが、次第に廃棄している。今これから日本だけが同化政策を採るのか」。
――この頃、フランスはアルジェリアの同化政策を放棄していました。住民の反対運動が激しさを増し、植民地を同じ法律で統治することの限界が露呈していました。しかし、原は答えます。
「他の国がどうであるからと言って、日本にもそれを敷くわけにはいかない他の国の植民地と日本の植民地は違う。現にここに内地同然になった例がある。琉球だ」
――明治維新の11年後、琉球は沖縄県として日本に組み込まれます。沖縄には、内地の様々な法律が次第に導入されていきました。参政権が認められ、税制や徴兵制が布かれました。その結果、日露戦争では二千人の沖縄出身者が、日本の兵士として戦場に立ちました。原は、台湾議会の設置を認めませんでした。台湾人が、明治憲法下で、同じ臣民であると定められている以上、沖縄のように同化することを求めたのです。
――台湾の同化政策で先ず重視されたのが、教育でした。それまで台湾人は、日本人と別々の学校に通っていました。同化政策によって、同じ小学校に通えるようになります。さらに、日本人しか通うことの出来なかった中学校への進学も許可されました。
★同窓会の風景
――かつて父親が日本人小学校を退学させられた、柯徳三さんです。
柯さんは同化政策によって、日本人と同じ小学校を卒業し、中学校に進学しました。柯さんが通った旧制中学校、台北第一中学校を卒業した台湾の人々です。78歳から96歳までの卒業生が一堂に会した同窓会です。台北一中時代の柯徳三さんです。クラスメイトは50人。その中、台湾人の生徒は二人だけ。他はみな日本人です。同化政策の実態は、台湾人にとって極めて厳しい制限付きのものでした。
卒業生(日本語で語る):
「それでね、一中なんかね、あんたね、台湾人は3%しか、3%ぐらい」
卒業生(日本語で語る):
「台北一中を受けるために、日本人より勉強しないと受からない」
柯徳三(日本語で語る):
「日本人になりたい、小さい時は日本人になりたい、どうして台湾人というものに生まれたかなんて考えたけどね、小さい時、小学校の頃ね」
――狭き門を潜り抜け、中学校に入学した台湾の生徒達。しかし、日本人が大多数を占める中で、より多くの偏見や差別に苦しめられることになります。
柯徳三(日本語で語る):
「台湾人の豚肉の角煮ね、ローバーだな。ああいうものを弁当に持っていってるでしょ、そうすると笑われるんだ。笑われるから。特に豚の尻尾なんか持っていったら笑われる。あれなんだ、豚の尻尾だ。台湾人は豚の尻尾食うのか、わいわいわいわい騒ぎ立てるんだね。そういうことだから、だから家に帰って、母に文句言ったんです。弁当のおかずを日本式にしてくれ、卵焼きとかね、たらことかね、ああいうものをやってね、そして、なるだけ台湾食を無くしてくれって、要求したんです。私の母も随分苦労したよ。さくら干しとか、みりん干しとか、ああいうものね、おかずにして持って行く。そしたら弁当の蓋を開けるのも、堂々と開けられるね、台湾式のおかず持って行ったら隠さんといかん。恥ずかしくて、笑われるから、あれ、子供の時代、年取って大人の……」
――台北一中を卒業した台湾人生徒達は、日本人の生徒と同様に、高校や大学に進学しました。社会に出ると、さらに露骨な差別を受けることになります。
卒業生(日本語で語る):
「僕の親父は一番下の判任官(役人)になっていたけど、あんたね、一月ね、百円貰って、同じ判任官でも僕の親父は百円で、内地人は百六十円貰えるんだ」
「同じ職場で、同じクラスで」「そうそう」
「父も華南銀行におったんですが、台湾人だと伸びないんですよ。だからみんなお医者になるって。お医者になったら技術次第だからね」
柯徳三(日本語で語る):
「私の従兄弟の姉さんが、日本人の嫁になって、日本へ行ったけどね、戸籍が入らん。あれが差別。こういうのが差別でしょう。ああ、それで随分苦労したって。最後の最後まで、台湾人である身分を隠さんといかん」
卒業生(日本語で語る):
「台湾においては一等国民は内地人で、二等国民が琉球だ。三番目が台湾人だ」
――台湾には当時、およそ一万人の沖縄出身者が暮らしていました。とりわけ多かったのが教育関係者でした。日本は、既に同化が進んだ沖縄の人々を台湾に送り込み、指導に当たらせていました。
NHKスタッフの声:「日本時代をどう思いますか?」
卒業生(日本語で語る):
「もう嫌だな、嫌だ。差別、馬鹿にしよって」
――1923年、台湾総督府で大きな計画が持ち上がります。皇太子を台湾に招く、行啓です。総督府がまとめた、「台湾行啓記録」には、その目的が記されています。
「我が国皇道の博大なる仁愛を示し、遠く離れた台湾の民に、すがるべき主君を知らしめる」
――皇太子を招くことで、台湾人に日本人と同じ臣民であることを、実感させようとしたのです。
皇太子を迎える予行演習。並んでいるのは先住民族です。演習に参加した先住民族の言葉が、残されています。
先住民族の言葉:
「困ったのは不動の姿勢というやつだ。背中から汗が流れるが、拭くことも出来ない。のみならず、目の玉さえ動かすことがならぬ。それは自分らには、生まれて初めての大苦痛であった」
――1923年4月。皇太子、後の昭和天皇が台湾に到着。当時、皇太子は、病気だった天皇に代わり公務を担っていました。皇太子は12日間に渡り、台湾各地を回りました。視察したのは、統治によって日本化されていく台湾の姿でした。皇太子は、学校や工場など、およそ百カ所を訪ねました。そして訪れた先々で、台湾の人々に姿を見せました。台湾行啓記録の文章です。
「台湾人は日のいづる国の民という自覚に歓喜している。彼らは今や朝廷忠良の民となった」
【転載歓迎】NHK「JAPANデビュー」全内容文字起し-Part.4
http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-101.html
――皇太子の行啓を、千載一遇の機会と捉えた人物がいます。台湾議会設置運動の指導者、蒋渭水です。蒋は、皇太子の一行が、自分の病院の前を通過することを知ります。考え出したのは、皇太子に直接、台湾議会の設置を訴えることでした。
蒋松輝(日本語で語る):
「親父はそのコースを狙って、大きなのぼりを作った」
――恭しくお迎え致します、台湾議会誓願団。のぼりに書かれた言葉です。
「目的は悪くない。目的はただ、台湾人がこういうことをやっていることを摂政宮(皇太子)に知らせたかった。ていうのはあれ、雲の上の人でしょ。知らないよね。台湾人がそういうことをやっていることを、全然知らない。だから知らせようと思って、これを作った」
――蒋渭水の病院前を通過する皇太子の一行です。しかし、そこに蒋の姿はありませんでした。実行直前に警察に見付かり、拘留されたのです。台湾議会の誓願は、14年間続けられましたが、認められることはありませんでした。台湾の民族運動を研究してきた歴史学者の周婉窈さんです。
周婉窈(台湾大学歴史学系教授):
「この時、台湾人は日本からの独立を求めていたわけではありません。日本の統治を認めた上で、自治を求めていたのです。ですから日本が台湾人の訴えに応えて、自治を許していたら、日本はアジアで新たな世界を創り上げることになったはずです。そうすれば、今日でもアジアの人々の支持を得ることが出来たでしょう。しかし、日本はこの分岐点に差し掛かった時、そうした行動を取ることはありませんでした。台湾人の自治を認めることは無かったんです」
――1937年、日中戦争が勃発。台湾統治が新たな局面を迎えることになります。当時台湾には、およそ500万人の漢民族がいました。日本は、自らの領土内に敵と同じ民族を、抱え込むことになります。当時の台湾総督、小林躋造です。小林は、軍人出身者として17年ぶりに台湾総督となりました。軍との結び付きを強めた総督府は、新たな統治方針を打ち出します。
「現下の情勢に鑑み、五百万島民が打って一丸となり、等しく皇国民たる資質を体得するを要す」
――小林は、皇民化というスローガンを掲げます。皇民化とは、天皇中心の国家主義のこと、台湾人を強制的に日本人へと変える政策でした。学校や新聞などで、中国語を禁止し、日本語の使用を強要します。当時、台湾総督府の官僚だった、田宮良策さんです。田宮さんは、軍部の強い要請の下、皇民化政策を担うことになります。
元台湾総督府官僚・田宮良策(98):
「日本語を話せない人は御遠慮下さい、ということで、バスは乗せなかったですね。しかし、人間の数からしたら、日本人は微々たるものなんですから、その台湾人同士で、こう話す時には、平気でね(中国語)を話す。いや、それは、こっちは(軍の幹部に)実情を話しながら、もう少し方法を変えて貰えないかとかね、いくと、お前は非国民だっつうんだ。軍刀を抜かれたことはないけど、ここ(腰の刀に手をかける仕草)、こうやられたことはありますな」
――皇民化政策は、人の名前の変更にまで及びました。同じ時期、朝鮮半島では、新たに氏を創る「創氏改名」が行われ、台湾では「改姓名」が始まりました。
★先の同窓会の風景
卒業生(日本語で語る):
「私、林(りん)です。それで、僕のお父さんは林(はやし)という名前で改姓名したかった。それは許可出ない。台湾の林ていう姓は必ず、中林(なかばやし)だとか大林(おおばやし)とか中林(なかばやし)とか小林(こばやし)という、もう一字付け加えないといけない」
卒業生(日本語で語る):
「私は黄(こう)で、廣内ね。この字(黄)を残すように、自分の考えをね、それが多いんです」
NHKスタッフの声:「それはどういう思いなんですか?」
「昔の姓を残したい、昔の自分の姓を残したい、改姓名は結局、公務員の方ね。職場に就いている人は、あのね、改姓名すると、昇級の、あの条件になってしまうんです。それで仕方なしに、みな改姓名するんです」
――皇民化政策は、台湾人の心の中にまで踏み込んでいきます。台湾全島に、日本の神社を次々に建て、人々に参拝を強制します。
★背景・開復廟
――そして、台湾人が拠り所にしてきた宗教への弾圧が始まります。道教寺院や廟の参拝を制限、建物の取り壊しも始めます。この廟を管理する鄭啓松さんは、少年時代の出来事を克明に覚えています。1938年、地域の寺院や廟に奉られていた神々の像が集められ、全て焼かれました。
鄭啓松(80):
「(字幕)神様を、掛け布団の中に隠した人もいれば、台所に隠した人もいました。それでも日本人は、神様を郡の役所に持ってくるよう命じました。従わない者は29日間も刑務所に入れられるのですよ」
――新たに作られた日本の神社には、破壊した台湾の寺院や、廟の木材も使われました。そして、建築には近隣の台湾人も借り出されました。皇民化政策によって、台湾の人々は、台湾人であるという意識を大きく変えられていきます。
★先の同窓会風景
柯徳三(日本語で語る):
「酒を呑むのも日本酒で、こういう人間に誰が育てた、日本だ。そして、しゃべるのも日本語、台湾語でこういう演説を出来ない」
卒業生(日本語で語る):
「自称知識人と言いながら、ね、中国文で今言ったような言葉書けないよ、書こうと思ったら日文ですよ。そっから見れば、果たして幸福かどうか」
柯徳三(日本語で語る):
「書けないよ、あんた書けますか、中国語で」
卒業生(日本語で語る):
「僕は書けないね」
柯徳三(日本語で語る):
「頭のコンピュータが既に日本化されてしまっているから、あの20何年間の教育というのは、実に恐ろしいね。こういうの、頭が全部ブレーンウオッシュされているからね。だから日本式にものを考えたり、日本式に日本語をしゃべったりする」
――近年、日本統治時代を記録したフィルムが発見されました。ここには、皇民化政策が行き着いた先が、映し出されていました。戦時下、台湾青年を集めた訓練所が、各地に作られていきます。そこでは、皇民化政策によって、日本人としての精神が叩き込まれました。台湾の青年達は、天皇の兵士として日本軍に加わり、国のために命を捧げることになります。担ったのは日本の政策「南方進出」でした。
元台湾総督府官僚・田宮良策(98):
「軍の考え方じゃ、やっぱり(台湾を)南進基地にしたいと、そうすっと、こりゃ、あの自国の敵国になるような人を向こうに回しちゃ拙いから、結局、そりゃ、自分の方の同胞にひっつけておいた方がいいと、日本人にした方が、将来、所謂南方の海洋国家にね、なっていくのには、あそこ(台湾)を根拠地にするのは、一つの、軍部としては、そう考えたんじゃないでしょうか」
――1941年12月、太平洋戦争が勃発。日本は、戦争の目的を、欧米列強からアジアの植民地を解放することである、としました。
総督府前を行進する「台湾人日本兵」です。太平洋戦争期間中、およそ21万の台湾人が、日本軍に入隊します。そして、中国や南方戦線へと送られていきました。台北一中を卒業した柯徳三さんは、この頃、台北帝国大学の医学部に進学していました。1945年4月、柯さんは日本海軍に入隊します。訓練中、アメリカ軍の大空襲を受け、多くの台湾人兵士が命を落としました。さらに親族も犠牲になります。
柯徳三(日本語で語る):
「それだから、神子一人のためとか、喜んで天皇陛下のために死んでいってるや。死んだ、死んだ奴こそ災難だよ、ほんと。戦争で犠牲になってね、叔父は海軍の軍属で、マラリアに罹って海軍病院に入っとった。それで帰れるかと思ったら帰れない、死んでる。死んで、どういう病気、マラリアで死んだのか、殺されたのか、どうされたのか、分かりません、全然。未だに分かりません。もちろん骨もありません」
――1945年8月、敗戦。日本は50年に渡って統治した台湾を手放します。ジャパン、アジアの一等国の終焉でした。
★最初の公園の風景
群衆の一人、日本語で歌う:
「太平洋の空遠く、輝く南十字星……」
――戦場に赴いた、元台湾人日本兵です。太平洋戦争中、三万人を越す台湾人が、戦場で命を落としました。
群衆の一人、日本語で歌う:
「守りは我ら台湾軍、ああ厳として台湾軍。台湾軍の歌、台湾軍の歌」
群衆の一人、日本語で語る:
「あの、教育勅語ね、教育勅語。今ほとんど皆、分かりますよ。暗唱しちゃいましょうか」
「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ……」
――戦後、台湾を統治したのは蒋介石率いる中国国民党でした。日本兵として中国と戦った台湾人は、かつての敵の下で暮らすことになります。台湾人は、日本人の奴隷になったと非難され、国民党と衝突、多くの人々が処刑されていきました。
★再び公園の風景
群衆の一人、日本語で語る:
「孤児になって捨てられたみたいですよ。人を馬鹿にしているんだ、日本は。そういうとね、間違ってるか?本当のことだろう。間違ってるか?本当のことだろう。これ嘘じゃない、帰ったらね、日本の若い連中には分からないけど、年寄りの80歳以上の人に、まあ、あの宣伝して下さい。台湾の、台湾の当時の若い青年は、如何にして、日本の民と協力して、尽くしたか、心を察して貰いたい。ハハハ、分かりますか。そうでしょ、命を掛けて国のために尽くしたんだよ、命のため、それなのに……」
★同窓会の風景。台北一中、パイワン人の写真など
フランス歴史学者・パスカル・ブランシャール:
「私たちは、他者と共有できる歴史を探り当てなければなりません。他者の歴史を知ることは、自分自身を知ることでもあります。私たちは最早、正しく優れているのは自分で、間違って劣っているのは相手だ、と考えることは出来ません。世界に目を向け、何故世界の人々が、日本をこのように見るのか、理解しなければならないのです」
★渋谷界隈の夜景
――親日的とも言われる台湾に、今も残る日本統治の深い傷。それは今後、アジアの中で生きていく日本が、分かち合わなければならない現実です。過去と向き合う中から見えてくる未来。150年前に世界にデビューしたジャパンの歴史が、私たち、一人一人の明日を問い掛けています。
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★エンドロール
NHKスペシャル シリーズJAPANデビュー
第一回 アジアの“一等国”
資料等協力(略)
語り:濱中博久、礒野佑子
声の出演:81プロデュース
撮影:竹内秀一
編集:渡辺政男
ディレクター:濱崎憲一、島田雄介
政策統括:田辺雅泰、河野伸洋