【読者の声】台湾の地質研究者(7) 富田芳郎 [地質学研究者 長田 敏明]

地質学研究者の長田敏明氏からの第7弾として、台北帝大ゆかりの学者で、『台湾地形
発達史の研究』を著した「富田芳郎」について投稿していただきましたのでご紹介しま
す。                                 (編集部)


戦前の台湾の地質学研究史−地質研究者伝(7) 富田芳郎(1895-1973)

                            地質学研究者 長田 敏明

 富田芳郎(とみた よしろう)については、その地形学研究の集大成である1972年刊
『台湾地形発達史の研究』(古今書院、370頁)の序文(1-10)に自らの略歴と生い立ち、
エピソードなどを記している。以下これを中心に述べることとする。

 富田芳郎は明治28(1895)年、北海道札幌市に生まれ、大正4(1915)年、東京高等師
範学校理科3部に入学して地理学と博物学を専攻した。東京高等師範では地形学を山崎直
方・辻村太郎に、地質学を大関久五郎に、人文地理学を内田寛一に学んだ。

 富田は、大正7(1918)年に佐藤伝蔵の指導により山東半島で巡検を行っている。同
年に東京高師を卒業、東京女子高等師範学校付属小学校に3年間勤めた後、大正10(1921)
年に東北帝国大学理学部地質学科に入学している。富田の卒業研究は「新潟油田の地質
構造と油砂の研究」であった。

 大正13(1924)年に東北帝国大学を卒業するが、前年に設立された東北帝国大学法文
学部で、地球物理学専攻の田中舘秀三の助手を務めていた。博識であった田中舘は、地
質学・海洋学・湖沼学から地理学まで広汎な学問分野をカバーしていた。富田は、当時
の東北帝国大学の佐藤丑次郎法文学部長から「経済地理学の研究に従事するべし」とい
う辞令の伝達を得た(富田:1972)。

 富田は大正15(1925)年には、東北帝国大学から同級の遠藤誠道の後任として奈良女
子高等師範学校に転出する。昭和4(1929)年には、日本地理学会が奈良女子高等師範学
校で開催されているが、この時、富田は山崎直方と地形について歓談した。このときの
奈良女子高等師範学校の校長は、有名な古生物学者の槇山次郎の父親である教育学者の
槇山英次であった。

 昭和6(1931)年、奈良女子高等師範学校から台北帝国大学に転任する。富田は、敗戦
後まで継続していた研究の成果をまとめ、台北帝国大学に「台湾の地形発達史」と題し
て学位論文を提出した。この論文の主査は、「台湾地質学の父」と呼ばれる早坂一郎で
あった。

 富田が台北帝国大学に勤めていた頃は、国土地理院の地形図の使用については軍事機
密で、厳しい規制があった。1936年から1938年にかけて早坂一郎の提唱で日本学術振興
会から研究費を得て「台湾の地質構造の研究」というテーマで総合研究が行われ、富田
は「地形による地体構造の調査」を分担した。これが富田の学位論文の基礎になったも
のである。

 富田は昭和22(1947)年12月に台湾をあとにし、翌年、母校である東北大学理学部地
理学教室へ奉職する。その後、日本大学文理学部地理学教室の教授となり、また、日本
地理学会の会長をつとめ、同学会の名誉会員となった。さらに、昭和41(1966)年から
は国士舘大学文学部地理学教室へと赴任し、後進の指導にあたった。


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