いた「石崎和彦」について投稿していただきましたのでご紹介します。 (編集部)
戦前の台湾の地質学研究史−地質研究者列伝(10) 石崎和彦(1916-1945)
地質学研究者 長田 敏明
石崎和彦については、森下晶(1953)が『日本地質学会60周年史』の中に記載している
(59頁)。そして、戦時中のエピソードについては、早坂が『角礫岩のこころ』に記し
ている。以下これらの資料を中心としてまとめる。
石崎和彦は1916(大正5)年9月29日に台湾に生まれ、1936(昭和11)年3月、旧制台北
高等学校を経て、台北帝国大学に入学した。理農学部生物学科で、唯一、地質学古生物
学を専攻し、1939(昭和14)年に卒業した。
キリスト教的教養を身につけた両親のもとに育った石崎は、芸術面にも深い素養があ
り、特に石崎のピアノの腕前は玄人はだしであった。高等学校の卒業に際して進路を音
楽関係にしようかと迷ったとき、石崎の尊敬した早坂に意見を聞いたところ地質の方が
よいということで、地質学科に進学したという経過がある。
1941(昭和16)年に母校台北帝国大学の助手として早坂一郎のもとで古生物学の研究
をはじめた。研究テーマは、主として台湾の新第三系の生層序学的研究及び構造研究で
あった。化石研究には不十分な台北帝国大学の施設・設備の中で、石崎は精力的に研究
を行い、台湾および日本の化石及び現世小型有孔虫類の形態的、系統分類及び生層序学
的な研究について、台湾地学記事や台湾博物学協会会報などに次々と発表した。
さらに石崎は、「日本産の新生代ないし現生有孔虫類の完全な目録」を作成し、「台
湾の地層名」を編集し将来に備えた。これは、同学の士にとって非常に役立つ資料であ
る。
石崎は、1943(昭和18)年12月には、緊迫した情勢の下で、地質調査所技師の青地清
彦などともに油田地域に出張を命じられた。
戦況が悪化したため、ボルネオより帰還の途について、昭和20年4月1日、台湾を目前
にしたバシー海峡でアメリカ軍潜水艦の魚雷攻撃によって轟沈された阿波丸とともに帰
らぬ人となった。享年29歳。
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