を証明した「林朝★」(りん ちょうけい)について投稿していただきましたのでご紹
介します。★ケイは啓の口のところが木なのですが、啓の字で代替することをお断わり
します。 (編集部)
戦前の台湾の地質学研究史−地質研究者伝(9) 林朝ケイ(1909-1985)
地質学研究者 長田 敏明
林朝啓については、国立台湾大学編『地質科学系史』(既教師著作目録)の第5章の第
6項(42頁〜50頁)や、尾崎博(1985)の地質学雑誌に掲載された紙碑によって述べられ
ている。これらに基づいて以下に記載する。
林朝啓は1909(明治44)年、台湾の豊原に5男1女の第4子として生まれた。1931(昭和
6)年、創立間もない台北帝国大学地質学科に入学し、1934年に卒業した。
台北帝国大学では、早坂一郎の門下生となり厳しい指導を受けた。林の卒業論文は、
「Stratigraphical Studies on the Younger Tertiary and Pleistocene Formations of
Toyohara District,Taityu Prefecture,Taiwan(Formosa).」であり、卒業後すぐに
母校である台北帝国大学の助教授となった。
林のこの卒業論文は、台北帝国大学理農学部紀要(13巻3号、地質学10号、14−30頁)
に掲載されている。また、「社会民衆のためには、地球科学の普及と地下資源の開発が
伴わなければならない」という信念のもと、瑞金金山や中央山脈の探査に従事した(尾
崎:1985)。
戦中に北京在住し、困難な状況にあったドイツ人古生物学者のGrabauの待遇改善に遠
藤隆次とともに奔走したことなどは、林の人柄を物語るものである。
敗戦の混乱で、日本人が調査した鉱床等の調査資料が焼却されそうになったときも、
関係当局に働きかけて、誠意をもってこれを阻止させた。
林が生涯に書いた論文・報告書は、主要なもので約150編である。尾崎(1985)によれ
ば、林の門下生である劉平妹(現台湾大学地質科学系教授)が林の研究態度について述
べており、それによれば「林朝啓の日常の生活は、儘心儘力、学不厭、教不倦であった」
という。
早坂は、林をGrabauに紹介したが、林は数回Grabauに会見している。当時の時勢が外
国人に対して手紙を出すことが憚られたころであるので、早坂は林に手紙を託している。
この手紙の写しが国立台湾大学に残っている。
また、林は山西省鉱務局に入局することになっていた。しかし、1937年に支那事変が
始まったため、中国東北部(旧満州)の新京工業大学教授となり、1939年には、国立北京
大学及び北京師範大学の地学系の教授をつとめている。
日本の敗戦に伴い帰台し、1946年には、馬廷英とともに国立台湾大学理学院地質系教
授となり、早坂をはじめとする日本人学者の作り上げた教室を引き継いだ。その際に、
日本人学者を決しておろそかにせず、その身辺の安全に対しても配慮し、これらの学者
の研究を継続できるように願った。
国立台湾大学で林が担当したのは、地形学をはじめとして新生代地質学、地史学、軟
体動物化石学などであった。1952年には中華民國建設局専任委員及び鉱務科長を兼務し、
石炭業発展のために尽力した。
林朝啓は、丹桂之助と野外調査した結果を基にして、1957年に『台湾地形』を著し、
1963年には、これを基礎として『台湾の第四紀』を完成させた。この本は、台湾の第四
紀地質学の基礎となり、第四紀学とそれに関連する分野の多くの貢献をしている。
さらに、1968年に長濱八仙洞の発掘調査を行い、台湾にも「旧石器文化」のあったこ
とを証明した。また、1973年には『地球科学大事典』の編集に携わった。
1977年、台湾大学を定年で退官しているが、台湾大学には32年の長きに亘って勤務し、
最後の10年間は、南部横断道路調査の折りに発見した始新世貝化石を運搬する際に痛め
た腰椎をかばいつつ研究に従事し、この間に33編の論文を書いている。1985年7月4日に
逝去した。
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