「基隆の聖人」と慕われた石坂荘作のお墓が群馬・東吾妻町で発見!

 本誌はたびたび群馬と台湾の結びつきの深さに言及してきています。

 最後の日本人台南市長を務め、台南の文化遺産を守り抜いて台南の人々から尊敬される羽鳥又男(はとり・またお)、「台湾紅茶の父」と慕われる新井耕吉郎(あらい・こうきちろう)、台湾の風土病撲滅に多大な功績を残し台湾ツツガムシ病を発見した医学博士の羽鳥重郎(はとり・じゅうろう)、「台湾いろはかるた」を作った須田清基(すだ・せいき)、基隆に台湾最初の「基隆夜学校」や私立図書館「石坂文庫」を創設して「基隆の聖人」「台湾図書館の父」と尊敬されていた石坂荘作(いしざか・そうさく)、芝山巌事件で犠牲になった六士先生の一人、中島長吉(なかじま・ちょうきち)、現在の雲林県古坑郷に水道を引いて村人たちが「功労碑」を建てて感謝している瀧野平四郎(たきの・へいしろう)など、多くの人物を輩出しているのが群馬県だからです。

 また、群馬県は1989年10月に上野村が苗栗県卓蘭鎮と姉妹都市を締結したことを嚆矢に、日本でもっとも多い9件の都市間提携を結んでいます。県内に国際空港がないにもかかわらず、台湾との交流が盛んなのが群馬県なのです。

 このほど、本会理事でもある群馬地域学研究所の手島仁・理事長の協力もあり、石坂荘作を埋葬したお墓が石坂荘作の姉の子孫によって発見されたそうです。

 上毛新聞は併せて「荘作の弟の子孫が東京都内におり、位牌(いはい)を継承していたことも判明」したと報じています。

 石坂荘作の生まれ故郷の東吾妻町(ひがしあがつままち)には地元有志でつくる石坂荘作顕彰会もつくられていて、2018年2月に中澤恒喜(なかざわ・つねのぶ)町長が基隆を訪問した折には「基隆夜学校がもとになった現在の学校や図書館の跡地、資料を見学した。中沢町長は取材に『学校では大歓迎され、石坂さんが尊敬されているのを実感した。台湾と日本の学生が分け隔てなく並ぶ当時の写真を見て感動した』と話した」(2018年2月18日付東京新聞「群馬版」)と報じられていました。

 これまでも、石坂荘作研究者の元国立国会図書副館長の宇治郷毅(うじごう・つよし)氏を講師に東吾妻町教養講座「石坂荘作氏の功績を学ぼう」が開かれ、女優で作家・歯科医でもある一青妙(ひとと・たえ)さんの講演会が石坂荘作顕彰会により開かれています。中澤町長自身も台湾との交流に熱心で、上野村の黒澤八郎・村長やみなかみ町の阿部賢一・町長、前橋市の山本龍・市長など7人とともに「日台共栄首長連盟」(会長:宮元陸・加賀市長)に加入しています。

 今回の埋葬墓の発見により台湾との交流に弾みがつくことをおおいに期待し、下記に上毛新聞の記事を紹介します。

—————————————————————————————–日本と台湾結んだ「聖人」 石坂荘作の墓、群馬・東吾妻町で見つかる【上毛新聞:2023年5月26日】https://www.jomo-news.co.jp/articles/-/289432

 日本と台湾の友好の礎を築いた、群馬県東吾妻町原町出身の石坂荘作(そうさく)=ズーム=の遺骨が埋葬された墓が、同所にある善導寺の裏山で見つかった。知られていた境内の墓とは別で、荘作の姉の子孫が発見した。周囲にあった墓石の建立者をたどり、荘作の弟の子孫が東京都内におり、位牌(いはい)を継承していたことも判明。台湾で死去し、郷里に残した足跡が少ない荘作の評価と研究が深まりそうだ。

 荘作の遺骨は分骨されて同寺に埋葬されたと伝わっていたが、境内の墓にはなかった。参拝と埋葬の墓を分けていたとみられ、裏山には荘作の父、弟など一族の墓が並んでいた。

 荘作は実子がいなかったため、近い関係にあるのは共に台湾に渡った弟の健橘(けんきつ)の子孫と、原町の片桐家に嫁いだ姉、ちかの子孫となる。いずれの子孫も台湾に先祖や親戚がいたことは伝え聞いていたが、最近まで荘作との縁を知らず、墓を訪れる人もいなかった。子孫たちは寺と相談し、埋葬墓を大切に管理していく考えだ。

 参拝墓には地元有志でつくる石坂荘作顕彰会による案内板が設置されているため、観光客などには今まで通り荘作の墓として参拝してもらう。

 埋葬墓発見のきっかけとなったのは、戦前に台湾の郵便局に勤めた祖父のルーツを調べていた横浜市の男性が、遺品の中から荘作の埋葬墓の写真を見つけたことだった。男性は2021年11月、荘作に関する著書「石坂荘作と顔欽賢」(上毛新聞社刊)がある群馬地域学研究所代表理事の手島仁さん(63)に連絡。写真が撮影された場所が台湾なのか、国内なのかも分からなかったが、手島さんは参拝墓とは別の他の墓の存在を確信した。

 一方、手島さんは22年9月、荘作の姉の嫁ぎ先、片桐家の子孫の倉田純子さん(66)=高山村=と知り合い、墓の写真についても情報を交換。調査を進める中で、倉田さんの弟、片桐英俊さん(60)=渋川市=が子どもの頃、父と善導寺の裏山へお参りに行ったことを思い出した。

 裏山は訪れる人が少なく、やぶに覆われていた。片桐さんは何度もルートを変えて分け入り、22年10月、草木や枯れ葉に埋もれた石坂家の墓を発見した。片桐さんは「何十年も墓を訪れる人がいなかったのでは。大事に守らなければと思った」と話す。

 その後、片桐さんは墓の建立者を調べ、健橘の子孫にたどり着いた。子孫は石坂姓ではなかったが、石坂家の代々の位牌を保管していた。遠方のため管理は片桐さんに任せる方針というが、いずれ墓参したいと話しているという。倉田さんは「人の縁がこんな形でつながるとは。吾妻の人が海外に目を向けてくれれば荘作も本望だと思う」と話す。

 国内には荘作の資料やゆかりの地が少なく、手島さんは「大きな発見」と評価する。墓が建立時のまま残され、当時の埋葬の風習を確認できたことも重要だという。「荘作は台湾で模範となった人物。功績をもっと知られていい」と指摘している。

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石坂荘作(1870〜1940年)27歳で台湾に渡り、北部にある基隆(キールン)市で石坂商店を開業。はかりやたばこなど専売品の販売で成功した。「台湾で得たものは台湾に返す」という思いで教育や文化の発展に尽力し、現地で「基隆聖人」と親しまれた。郷里の東吾妻町は荘作との縁で台湾との交流事業を続けている。

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