「台湾で神のように大事にされている」熊本県益城町の偉人

 熊本県と屏東県が本年1月下旬に「交流促進MOU」を締結することをお伝えした記事で、日台間では交流に尽力した先人が架け橋となって都市間提携を結ぶことが少なくないとして、新潟県佐渡出身で台湾製糖社長や農林大臣などをつとめた山本悌二郎(やまもと・ていじろう)のことを紹介しました。

 記事が長くなりますので、熊本出身の教育者の志賀哲太郎(しが・てつたろう)のことは割愛しましたが、志賀が架け橋となって、出身地の熊本県益城町(ましきまち)と教鞭を執っていた台湾の台中市大甲区が昨年(2023年)1月に「友好交流協定」を結んでいます。

 都市間提携や地元の偉人顕彰について大手メディアが報道するのは珍しいのですが、このほど読売新聞が志賀哲太郎の事績や志賀哲太郎顕彰会について、長文の記事を掲載しましたので下記に紹介します。

 志賀哲太郎の詳しい事績や大甲区との交流につきましては、志賀哲太郎顕彰会のホームページをご覧ください。

 なお、本会の渡辺利夫会長は昨年10月、志賀哲太郎顕彰会に招かれ、益城町において「台湾と日本のかけはしとなった先人たち」と題して講演しました。

◆志賀哲太郎顕彰会ホームページ https://shigatetsutarou.cloud-line.com/

—————————————————————————————–「台湾で神のように大事にされている」熊本県益城町の偉人…TSMC進出前から友好交流【読売新聞オンライン:2024年1月4日】https://www.yomiuri.co.jp/local/kyushu/news/20240103-OYTNT50089/

 熊本県益城町立津森小のそばにある顕彰碑は、1300キロ以上離れた台湾・台中市 大甲(たいこう)区の方角に向かって立つ。「大甲の聖人」として、現地で敬愛される町出身の教師・志賀哲太郎(1865〜1924年)の功績をたたえる碑だ。

 高さ約3・6メートルで2020年に設置された。台座には、信条とした慈(慈悲)、倹(節倹)、謙(謙虚)の3文字が刻まれた三つの石がある。台湾の有志も協力し、ゆかりのある川の石を送り、浄財を寄せた。町民らでつくる顕彰会の会長、宮本睦士(むつひと)さん(78)は、「先生への敬愛が今の人たちにも受け継がれている」と感謝する。

 志賀は同町田原に生まれた。地元紙の政治記者を経て、1896年(明治29年)、31歳で台湾に渡り、2年後に大甲村(現大甲区)で公学校(小学校)の教壇に立った。日本統治下の台湾人に平等に接し、貧困家庭には学資を援助した。

 大正時代に入ると台湾文化の護持を唱え、農園の管理人への異動を命じられ、無言の抗議として入水自殺した。村内は驚きと嘆きに包まれ、葬儀は神をまつる様式で営まれた。

 1966年には教え子たちが生誕100年を祝い、大甲にある志賀の墓石の隣に碑を設置した。国民党政権による戒厳令下で、孫文の息子・孫科が 揮毫(きごう)した。顕彰会事務局の折田豊生さん(73)は「日本人の顕彰などあり得ない時代に、教え子たちが説き伏せたんですよ」と解説する。

 児童教育に尽力した志賀だが、故郷の益城町では知る人は少なかった。「台湾で神のように大事にされている人がいる」。2015年、自民党青年局長として訪台した木原防衛相から伝え聞き、折田さんらは地元の偉人の功績を残そうと動き出した。

 生誕150年とも重なり、すぐさま顕彰会を設立。16、17年に大甲区を訪問すると、区を挙げて歓待された。折田さんは「ここまで歓迎されるとは」と振り返る。

 顕彰会では17年に全171ページの資料集を刊行し、県内各地で研修会を開いて功績を伝えている。益城町の碑には安倍晋三首相(当時)が揮毫した。「向こうの碑が孫科なら」と木原氏を介して依頼したという。

 昨年1月、町と区で友好交流協定を締結した。今後、志賀の出身地区にある津森小と、教員として勤務した大甲区の小学校の教室をオンラインでつなぎ、自己紹介などを通じての交流も計画する。台湾積体電路製造(TSMC)の進出前からの志賀がつないだ縁だ。

 宮本さんは「子どもたちを介して教育や文化、スポーツでの交流を広げたい」と語る。志賀の没後100年を迎え、熊本と台湾の懸け橋となった先人を温める。(岡林嵩介)

※この記事はメルマガ「日台共栄」のバックナンバーです。


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