【講演録】「尖閣問題で見る日台関係」

【講演録】「尖閣問題で見る日台関係」

 文責 藤井信幸 特定非営利活動法人国際原子力広報支援センター理事長

(講師)台湾団結連盟日本支部長、メルマガ「台湾の声」編集長林建良氏

(去る9月30日、東京・麹町で開催された講演会の中から、林建良先生の許可を得て,その要旨を以下に紹介する。)

(最初の5分位が録音されていません。)

●台湾漁船の尖閣領海侵犯は馬政権による漁業権交渉妨害工作

日本の財団法人交流協会は、ホームページで「台湾との漁業権交渉を再開する。」と表明した。これは大きな方針転換だった。ところが8月25日、台湾の漁船団が尖閣諸島に入った。これは漁業権交渉を邪魔する行為だ。だが良く考えれば、これは馬英九国民党政権のやり方である。

このよう経緯を見るだけでも尖閣問題は複雑であり、一筋縄では行かないことが理解できるだろう。

一方、中国の反日デモのピークは9月15〜16日だった。それが9月18日、つまり柳条湖事件が起こった日には、もう下火になっていた。これは中国の胡錦濤共産党政権がデモを禁止するという方針を明確にしたからである。反日デモを動員して中国国内が無秩序になりかねない状況になっていたのだ。

中国政府が反日デモに火をつけて、今後はそれを止めた。また香港の活動家達も「今年中には尖閣へは行かない」と言う。ところが、その頃台湾の動きが出てきた。これは中国との連携で「聯中抗日」(中国と連合して日本に抵抗する)の作戦であった。中国政府に近い台湾企業の「旺旺集団」蔡衍明会長が台湾の漁船に燃料費として1500万円出していた。台湾漁船が出発する前に馬英九政権下の海巡署が一つの指示を出していた。「日本の海上保安庁に向けて発砲して良い」と。結局、これは水鉄砲作戦になったが、宣伝効果はあった。

●中国に操られている台湾の「保釣運動」(釣魚島守れ運動)

尖閣問題は、中国の思惑と台湾の親中国派の思惑が一致した。9月23日のデモは、約1000人が参加したというが、台湾では1000人規模のデモは珍しくない。中国国籍の五星紅旗を持っていた。デモ参加者は親中国派である。プラカードでは、「台湾と中国は連携して日本をやっつけよう」「台湾と大陸(中国)を統一させよう」「一つの中国になろう』。その言い方は中国そっくりで、日本を「小日本」と言い、日本人は「鬼子だ」という。これらは台湾人が使う言葉ではない。

中国政府が裏で操っていることは明白だ。確かに9月25日の尖閣へ行った漁民は台湾漁民だが、裏で操っていたのは中国政府であり、台湾の馬英九政権だ。これは漁業交渉を成立させないための妨害行為に他ならない。

●台湾人は釣魚島も尖閣も知らなかった

では本当の台湾人はどう思っているか?
実は私が中学生時代の台湾の地図にも「尖閣」と書かれており、それは日本領土だった。台湾人は、「尖閣」も「魚釣島」も聞いたこともなければ関心もなかった.清の時代から宜蘭県の漁民が尖閣海域で漁をしていた。

1895年1月に日本政府は尖閣諸島を領土に編入し、その三か月後の4月に下関条約で台湾を所有してからも宜蘭県の漁民が漁業をするのに何の支障はなかった。1945年以降、1972年まで沖縄はアメリカの占領下にあった。台湾漁民は1972年まで尖閣で自由に漁業をしていた。1972年、沖縄が日本へ返還されてからも、台湾漁民が漁業をすることを日本側は黙認していた。

日本政府や海上保安庁が厳しくなったのは、最近のことだ。そうすると、台湾漁民は「今まで出来たことが何で出来なくなったのか」と考える。台湾の政治家たちもそう考えている。日本政府の台湾漁民に対する優しい心使いが仇になった。 

馬英九政権の考えは、「尖閣は下関条約で日本が割譲したもの。サンフランシスコ条約によって日本が放棄したはず」というもの。この論法は、中国側が先の国際総会で説明した論法と全く同じだ。つまり「尖閣は下関条約の一部」という考え方だ。台湾独立運動の一人、徐さん(台湾大学卒業)は言う。「これは破ることができる論法であるが、今の中国も台湾政権も同じことを言っている。台湾人もそれを信じている。また日本政府は正面から反論していない。(日本側も曖昧さを残している。)

●「尖閣は日本の領土だ」と明言する李登輝氏

尖閣は日本の領土だと明確に言ったのは李登輝氏だ。中国は1970年までは一度たりとも「尖閣が中国領土だ」と主張したことはなかった。国の領土は主張するだけではダメだし、国際法に頼っていてはダメだ。「実効支配」ということが大切だ。

尖閣諸島には、一時期200人が住んでいたのだから、現実的にも法理的にも「日本の領土だ」と言わなければいけない。そのことを指摘したのが李登輝さんだった。台湾最大手の新聞紙自由時報も社説の中で「日本の領土だ」と書いている。宜蘭県が管理していたというが、もし事実だったとしても「行政区域」と「主権」とは全く別の問題だ。行政区域という線引きは変えられるが、主権はそうではない。 

台湾団結連盟も「尖閣は日本の領土だ」と言っている。国民党は中国と同じ主張で「下関条約で日本が奪った」、民進党は「宜蘭県の一部だ」、親民党は国民党と同じ主張だ。

●中華民国も中華人民共和国も尖閣で騒ぎたくなかった

1968年から1969年に国連の極東経済調査委員会の3ケ国(日本、韓国、台湾)による調査で、その当時、中華民国(台湾)は常任理事国を務めていた。石油埋蔵量を発見し、一番初めに騒ぎ出したのはアメリカにいた台湾留学生だった。すなわちアメリカに逃げ込んできた中国人(国民党)の子供達だった。彼らが中国人学者の丘弘達氏(法律学者)がいろいろな文献をかき集めて「下関条約の一部だ」と言い出した。この学者が扇動して「保釣運動」(釣魚島守れ運動)を始め、尖閣奪還運動組織になった。そして翌年、200人を集め、国連前でデモ行進をした。

更に香港でも運動を始めた。当時の香港は英国植民地だったが、自由な運動ができた。蒋介石政権は1971年1月16日、当時中華民国(台湾)外交部政務次官楊西崑氏が日本の駐台湾大使板垣氏と話し合った。「これは小さな問題だ。学生が騒ぎ立てているが、中華民国政府とは全く関係がない。ご心配なく。中華民国はそのようなことはしません。」と述べた。

尖閣問題で騒がないと言った。しかし後になって、問題が大きくなり、台湾当局は2つの案を作成した。その一つは、「尖閣は台湾の領土ではない。できるだけ学生運動を抑える。」という案。もう一つは、「尖閣は中華民国の領土なので主権を主張する。そして学生運動を支援する。」という案であった。
そして蒋介石に決裁を仰いだら、蒋介石は後者を選んだ。

一方、1971年4月5日の蒋介石日記には「尖閣は実に悩ましい問題だ。この問題を解決しようとすれば、軍事行動しかない。軍事行動は日本との戦争になる。それはアメリカとの戦争になるかもしれない。そうすれば台湾の防衛ができない。台湾が中国に獲られてしまう。だから困った」と書いてある。

つまり台湾政府が「尖閣は台湾領土だ」と積極的に主張するより方法がなかったのだ。中国は1972年9月27日、日本との国交を回復した。当時は国交回復が優先されたので、日本の田中角栄総理が周恩来総理に「尖閣はどうしますか?」と聞くと、周恩来は「それは小さな問題だ」と述べ、何ら関心を示さなかった。

●外務省の姿勢が尖閣問題を拡大させた

日本外務省は、この棚上げを外交的勝利のように思ったらしい。日本の遠慮がちの姿勢が中国側に「日本も尖閣は自国の領土との確信を持っていない」という誤ったメッセージを送った。

中国に対する卑屈な姿勢は属国意識であり、台湾問題でもみな同じだ。つまり日本は尖閣を中国に差し上げた感がする。今やこのカードは「日台分断カード」として使われている。

アメリカは尖閣問題について中立的立場を維持するという。
台湾が尖閣について中国と同一歩調を取れば、台湾は中国の一部になる恐れか、がある。これはどうしても避けなければならない。

日台両国にとっての最善の道は「主権は日本、漁業権は台湾が日本と協議する」である。しかし、台湾政府が「尖閣は台湾の領土だ」と言ってきた経緯を考えれば難しい。次善の策は、台湾が主権の棚上げをして、日本側が漁業権交渉に応じる、これなら可能性がある。

日本が中国の圧力に屈するか、日本が自ら台湾に手を差し伸べるか、これは日本の政治家の知恵に係っている。

●形の見える実効支配が大切だ

尖閣問題について日本はアメリカにもっと明確に日本を支持するように圧力をかけるべきだ。尖閣、オスプレイ、原発なども全部中国が裏で糸を引いている。一人一人の声、国民の声は無力だ。力は組織だ。

アメリカに理解してもらい、アメリカ社会にも理解してもらう必要がある。そのためには日本はもっと詳しい説明をする必要がある。尖閣がなぜ日本領土なのか、どのような経緯を経て日本が領土にしたのか、など詳しく説明するべきだ。

ただ「尖閣は我が国固有の領土だ」というだけではダメだ。「相手を困らせたくない」という心理だけでは世の中は渡れない。台湾にもアッピールしてほしい。日本が丁寧に説明しなければならない。

そして、やはり形の見える実効支配をしなけれなならない。口先だけでいくら言ってもダメ。実効支配し、利用している実績を示すことが肝腎だ。日本の態度がはっきりしない限り尖閣問題は中国にカードとして切られる。尖閣、靖国、竹島、慰安婦、教科書などこれまで、いろいろなカードが切られた。私は日本にもっとしっかりしてもらいたい。(終わり)