西村真悟の時事通信より転載
十二月三日に、台北市辛亥路三段にある第二殯儀館で行われた黄昭堂先生の告別式に出席し、翌四日には、大阪大手町の国民会館で行われた大東亜戦争顕彰講演会に出席した。
以下、その報告。
台湾独立建国連盟主席、黄昭堂先生は、昭和七年(一九三二年)九月二十一日、台湾台南市に生まれ、
昭和三十一年、台湾大学を卒業し、昭和三十四年より、東京大学大学院社会科学研究科において国際関係論を研究し、昭和四十四年、東京大学博士号を授与され、以後、聖心女子大学、東京大学教養学部で教鞭を執り、昭和五十一年、昭和大学教授に就任された。
先生は以上のような研究と教職を続けながら、蒋介石の国民党が戒厳令を敷いて支配する郷里台湾に帰ることができなくなるのを甘受して、日本において台湾独立の運動を展開し、平成七年、台湾独立建国連盟主席に就任する。
そして、台湾において戒厳令が解除され李登輝時代が訪れるとともに日本と台湾を往復して、平成十二年、台湾総統府国策顧問に就任する。
私は、台湾の戒厳令が撤廃されてから、台湾を訪問する度に黄昭堂先生と食事をし、共に李登輝総統の私邸に伺ったことがある。
それは、台湾総統府前の道を車に乗って移動しているときだった。
黄先生が、「西村さんのこれからの予定は」と聞かれたので、「李登輝先生のお宅です」というと、黄先生が、「あれ、丁度よかった、僕も行こうかな、どうしょうかな」と言われる。それで、「一緒に、行きましょうや」となって同行したのだった。
昨日のように思い出す。
それから、十一月十日、台北で浪曲の会を開いたとき、黄昭堂先生が、西郷さんのような体を揺すっておいでになった。
その時、黄先生と飯を食べ酒を飲み話しをしたのが最後となった。
黄昭堂先生は、その一週間後の十一月十七日に急逝された。
十二月三日の告別式では、まず最初に、若い人々が日本語で「昴」(すばる)を合唱する中、前駐日大使の許世楷先生(前津田塾大学教授)ら六名が、黄先生の棺に「台湾独立建国連盟の旗」を被せた。
その後、キリスト教の式次第に則り、賛美歌が歌われ聖書の朗読があり、台湾独立建国連盟の歌が歌われ、棺に被せていた連盟の旗がたたまれた。
そして、棺が開けられ、参列者千数百名が棺の中の黄先生に別れの挨拶をした。
翌四日は早朝、桃園飛行場から関西空港行き日航機に乗り、十二時過ぎに関空に着いた。そして、午後二時からの「大東亜戦争顕彰記念講演会」に出席した。
そこで私は、二十分間、次の通り語った。
本年三月十一日に発災した東日本大震災において発せられた天皇陛下のお言葉は、我が国は、一貫して、百二十五代万世一系の天皇を戴く国家であることを世界に示した。
大東亜戦争を顕彰するには、戦前戦後を断絶した歴史として見るのではなく、一貫した断絶のない歴史として把握しなければならない。
その為には、まず、戦前と戦後が別の国になったとする前提で規定された、昭和二十二年五月に施行された「日本国憲法」と称する文書が、日本国の憲法として無効であることを各人一人一人が明確に確認する必要がある。
「日本国憲法前文」に従って、今の我らは、「人類普遍の原理」のもとにいるが、大東亜戦争で戦った英霊は「人類普遍の原理に基づかない体制」のもとで戦ったのだと思っていて「大東亜戦争の顕彰」などあり得ないのだ。
英霊は、大日本帝国憲法の「天皇の大権」の基に戦い、我らもその基に生きているのである。
また、昨日台湾で告別式が行われた黄昭堂先生は、何人か。
二十四歳のときに大日本帝国陸軍中尉だった李登輝先生は、何人か。
戦前戦後の連続性を明確にするなら、
このお二人は、日本人ではないか。
仮に、昭和二十年、北海道にスターリンの軍隊が雪崩れ込んで軍政を敷いたとしよう。
そのとき、北海道の日本国民がソビエト人、露助になるのか、なるはずがない。
同様に、昭和二十年、台湾に蒋介石率いる中国国民党の軍隊が雪崩れ込んだ。
その時、台湾の日本国民が「ちゃんころ」になるのか。なるはずがないではないか。
北海道も台湾も、日本人のままだ。
我々は、まず、この戦前と戦後の連続性を回復して、その上で大東亜戦争の意義を顕彰しよう。そうしなければ、歴史の教訓から学ぶことはできない。