西村真悟の時事通信より転載
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昔から人間は、刃物で食物を獲得し料理を造り、色々な生活必需品を造ってきた。それで私は、各地の刃物をよく見る。民族性が表れているように思えるからだ。
例えば、日本の刃物(これから少し脇道に入る)。
これで斬れば非常に綺麗に切れる。切り口が綺麗だということは細胞を潰さずに切れるということだ。これが、日本料理の前提だ。つまり大根を糸のように切ったり刺身の切り口を光るように切れる刃は日本で造られる。
私の郷里である堺は、昔から包丁の産地だが、堺の本当の包丁職人が造った包丁で、指を切断寸前まで切ってしまっても、切り口を引っ付けておけば、指が繋がると言われている。
こういう手術は、「神の手」をもつ外科医でしかできないが、堺の包丁で切れば、外科医がいなくとも指は繋がる。
古墳から出てくる刀も、正倉院にある刀も、今の包丁も、こういう切れ味をだすために、鋼を軟鉄で巻いて火で何度も練って造られている。こういう刃物をもつ民族は日本人だけだ。この刃物があるから日本料理が生まれてきたのだ。
指で葉っぱをちぎってサラダをつくり獣の肉を骨ごとぶち斬って煮たり焼いたりする料理(日本以外のほとんどの国の料理)では、日本の包丁はいらない。
以前、ドイツの家庭で主婦が太い指で葉っぱをちぎってサラダをつくっている光景を見たが、この料理法では、日本と刃物が違うだろうなと思った。
ちょっと前まで、我が国の家庭の朝餉の前の音は、「とんとん」という音で、お母さんが味噌汁の具の葉っぱをまな板に乗せて菜切り包丁で切る音だった。指で葉っぱをちぎる国ではこの音はない。
武器としての各国の刃物を見るのもおもしろい。日本人は武器としての刀を非常に美しくして手術に使うメスの如くする。
しかしこれは日本特有だ。
むしろ、刀を糞尿に漬けて汚くして戦場にもっていく民族が多い。傷は浅くとも傷口を化膿させて敵を殺そうとするのである。
さらに、刀身が蛇がのたうつように曲がっている刀をもつ民族もいる。刺しただけでダムダム弾のように内臓を破壊するために考案されたものだ。
日本の切腹も、日本人がもつ刀が芸術品の如く美しいから「習慣」となったのだ。日本料理が日本の刃物と不可分のように切腹の習慣も日本刀と不可分である。
(やっと、本筋に戻る)
この度も、台湾の原住民である高砂族の家に残されている刃物を見せてもらってきた。
それは、刃渡り二十センチから三十センチの短刀と、我が国の脇差しほどの長さの山刀である。
この山刀の方は、酋長などが左腰に差す立派なものであったが、山の中でもっぱら使うのは、この短刀だという。
彼等はこれで、「山ブタ」つまり猪をしとめる。山の中で猪をしとめられるか否か、何頭の猪をしとめたかで、男の値打ちが決まると言っていた。
(多分、彼等はこの短刀を我が国の「鎧通し」のように、右手で素早く抜けるように右腰に着けるのではないか)
この短刀は、車のスプリングに使う一枚の鋼でつくられていて非常に実用的で堅牢でよく切れる。日本の狩猟民がもつ「またぎ刀」に似ている。
では、この刃渡り二十センチほどの短刀でどうして突っ走ってくる百キロの猪をしとめるのか。
家人は、長さ百五十センチほどの先のとがった棒をもってきて短刀の柄の真ん中に空けられた穴に差し込んだ。すると、立派な槍ができあがった。
そして家人が説明する。
「山の中で、猪を見つけるとこの棒の先に短刀を着け、突進してくる猪の胸から心臓に槍を突き刺し、一発で殺す。怖がって遠ざかれば、槍は猪に届かない。そして、二度目の突進を受ける。かといって接近しすぎれば大腿を猪の牙で切り裂かれ出血多量で死ぬ。」
さて、この短刀から槍ができあがった情景をみて、直ちに想起したのは菊池千本槍だ。
高砂族の戦法と菊池千本槍は関連があるのかないのか。
我が国の鎌倉期までは、槍は実戦に登場していない。それまでは、弓や長刀や野太刀を振り回して戦っていた。鎌倉幕府滅亡から南北朝期に入り槍が登場してくる。
建武二年(一三三五年)、南朝方の九州肥後の菊池一族千名は、箱根竹ノ下で足利軍三千名と合戦し三千名を敗走させる。
その時、菊池の指揮官は、竹藪から各人二メートルほどの竹を切り取り、その先に短刀を結わいつけて、それで敵を突きまくれと命じた。この戦法で三倍の敵を敗走させた。
以来、菊池一族の武勇を語るときに菊池千本槍と言う言葉が使われた。
その武勇の伝承は、大東亜戦争でも甦った。
菊池一族の松尾敬宇海軍大尉(死後、中佐)は、オーストラリアシドニー湾に特殊潜航艇で突入するに際し、父親に家伝の菊池千本槍の携行を所望し、その短刀を携えて潜航艇に乗り込みシドニー湾突入に成功する。
しかし、湾内で集中砲火を浴び視界が閉ざされたので、彼は潜航艇の浮上を命じ、浮上した潜航艇のハッチを開けて菊池千本槍を掲げて上半身を乗り出し、直近の敵軍艦を指さして潜航艇の進路を立て直した。しかし武運つたなく潜航艇は撃沈された。
敵のサーチライトの中の絶望的な状況の中で敢然と指揮を執る松尾敬宇大尉の姿を見たオーストラリア海軍は、松尾大尉搭乗の特殊潜航艇を引き上げて、彼の遺体を海軍葬を以て弔った。
台湾の山奥で、短刀から槍を素早くつくる元酋長の姿を見て、私は直ちにこの菊池千本槍とかつて九州熊本の生家を訪れた松尾敬宇海軍中佐を思い出したのだ。
台湾島は九州と同じくらいの広さだが、富士山を越える高峰が五座あり三千メートルを超える嶺も百ある。
この深い山岳の密林の中で、棒と短刀だけで猪を如何にしてしとめるかを男の値打ちとした高砂族と菊池一族を象徴とする日本武士団に、武勇において共通性があると思えて潮州の山を下りたのだった。
さて、アメリカ軍は、何故、台湾に上陸せずに台湾を素通りして沖縄に上陸してきたのか。
台湾の人々と懇談していたとき、彼等が
「先の戦争で、アメリカ軍が台湾に上陸してきていたら、今頃台湾は立派な独立国になれたのになー」と残念がっている。
そこで、その通りだと思いながら、もしアメリカ軍が台湾に上陸してきたら、どうなっていただろうかと考えた。
そうなったら、台湾山岳部の高砂族義勇兵と西部に展開する台湾軍精鋭の迎撃を受けて、アメリカ軍は膠着状態のまま日々犠牲者を増やしてベトナム戦のように消耗したのではなかったか。台湾は、ついに制圧できなかったのではないか。特に、高砂族のいる東部の南北に連なる山岳地帯は無理だ。
大戦の末期、東京の陸軍首脳(大本営)は、アメリカ軍がまず台湾に来ると見て、沖縄から歴戦の精鋭部隊を引っこ抜いて台湾に移動させた。そして台湾を主戦場にしてアメリカを撃退しようと計画していた。
従って、現実にアメリカ軍が上陸してきた沖縄を護る第三十二軍は、精鋭を失った部隊だった。
しかし、それでも、第三十二軍は、圧倒的な艦砲射撃と空爆に曝されながら、三倍以上のアメリカ軍上陸部隊(十六万八千人)を迎撃し三ヶ月にわたって組織的戦闘を継続したのだ。
その結果、アメリカ側は次のように報告することになる。
「これほど短期間に、これほど狭い地域で、これほど多くのアメリカ軍艦が沈み、これほど多くのアメリカ軍兵士が血を流したことはかつてなかった」
沖縄戦では、アメリカ陸軍史上初めてのことが起きていたのだ。つまり沖縄上陸軍司令官のサイモン・バックナー中将が日本軍の十五センチ留弾砲によって戦死している。戦場における軍司令官の戦死は、日本軍においてもあり得ないことだったのだ。
アメリカ軍が、大本営の予想に反して、台湾上陸を回避したことはアメリカ軍にとっては賢明だった。
では、何を根拠にしてアメリカ軍は台湾上陸を回避しあきらめたのだろうか。私は、台湾で、山の人々にこう語った。
「待ちかまえている台湾軍が精鋭そのものだったことと、山岳部にニューギニア戦線など南の島々でアメリカ軍が遭遇した驚くべき勇猛な高砂義勇軍がいる。
あなた方が、南の島々で敵に見せ付けた勇猛果敢な戦い振りがアメリカ軍の台湾上陸を阻止したのだ」
台湾軍が精鋭だったという記憶は、台湾に残っている。
日本内地には、「台湾軍の歌」を歌える者は少ないだろう。私も歌えない。
しかし、台湾の多くの山の人は「台湾軍の歌」を歌った。
やはり台湾の東海岸の旅は、日本への旅だった。
「台湾軍の歌」の一番の歌詞は次の通り。
太平洋の空遠く 輝く南十字星 黒潮しぶく椰子の島
荒波吼ゆる極東を 睨んで起てる南の
護りは吾ら台湾軍 嗚呼厳として台湾軍