【真相】李登輝起訴の背後に何があるのか

【真相】李登輝起訴の背後に何があるのか

「月刊日本」9月号(2011年8月22日発売)より転載
        
         「台湾の声」編集長 林 建良(りん けんりょう) 

 2011年6月30日午前、台湾の検察当局は突如記者会見を開き、李登輝元総統を国家安全秘密口座779万米ドル余りの横領の罪で起訴した。このニュースは台湾社会に激震を与えたのみならず、瞬く間に世界のビッグニュースとなった。ミスターデモクラシーと賞賛されている哲人政治家が汚職の罪で起訴されるとはただ事ではない。しかし、この汚職を問われたのは十六年も前の外交機密費に関する疑惑で、重要関係者の無罪がすでに確定している事件なのだ。

●国際孤児台湾と外交機密費

 台湾が置かれた国際社会の現実が、この外交機密問題の背景にあった。1994年、当時台湾と国交を結んでいた大国といえる唯一の国、南アフリカが台湾との国交を断絶し、中国に乗り換えようとしていた。そうなれば台湾にとって外交的大敗北になるだけに、台湾は南アフリカへの1050万ドルの資金援助要求を呑まざるを得なかった。その資金の出所が「奉天専案」という機密費である。国連に加入できない台湾が、国家存在の正当性を維持していくためには外国からの国家承認が不可欠なのだ。

 だが、中国はあらゆる手で台湾の友邦を切り崩そうとしていた。その最も有効な手段が金銭外交である。この台湾の弱みを利用して中国に色目を使ったり、台湾から金をゆすり取ったりする国も少なくはなかった。

 一方、台湾は国民の監督の下で国政を運営しなければならない民主主義の国家でもある。台湾の国民が、ある程度台湾の国際社会における現実を理解できるとしても、親交ある国からの常識を超える金銭要求は決して国会の場で議論できるものではない。結果として外交予算を大幅に超える予算は機密費から捻出する以外にはなかったのだ。今回の機密費問題の発端はまさにこの典型的な例と言えよう。

 外交予算を超える資金援助の処理が急務となっていた当時、国家安全局局長であった殷宗文氏がシンクタンク台湾綜合研究院第四局に「戦略與国際研究所」という組織をつくり、民間法人を通して困難な外交案件を処理すると提案した。この案は総統府に設置されている国家安全会議で了承され、機密性の高い外交案件は台湾綜合研究院第四局を通じて処理することになった。この措置は台湾の現状からして当然の帰趨であった。

●機密費を透明化した愚かな指導者・陳水扁

 その後、2000年の総統選挙の結果、台湾は初の政権交代を迎え、民進党の陳水扁が政権の座についた。政治哲学や理念を全く持ち合わせていないポピュリズム政治屋である陳水扁は、国民受けの良いことならなんでもやろうとした。

 その最たる例が、情報開示の流行に乗って打ち出した機密費の透明化だ。そもそも「機密費を透明化する」ことは「黒猫を白猫にしよう」ということに等しい。かくも愚かしいことを永遠の優等生を自称する陳水扁はやったのだ。

 発端は「壱週刊」による機密費暴露事件であった。2002年3月19日、香港資本の週刊誌「壱週刊」が「奉天専案」を暴露して台湾の政界を震撼させた。まともなリーダーであるのならば国家秘密を暴露した「壱週刊」を法的処置で厳罰に処すだろうが、陳水扁は「例え政府が無くなっても報道の自由を守り通す」と「壱週刊」を不問にしたのみならず、さらには「陽光法案」(情報公開法)を作り、機密費を透明化した。

 後に彼自身がこの法律によって機密費の使い道を調べられ、マネーロンダリングの罪に問われて牢屋に入れられてしまう。機密費の透明化に伴ない台湾綜合研究院第四局も閉鎖され、「戦略與国際研究所」にあった機密費も外交部に戻された。外交部の予算なら国会審議に応じて公表せざるを得ないので、透明化するというわけである。この台湾の現実を無視した陳水扁の愚策が今回の李登輝起訴の一因となったのだ。

 では今回の起訴の経緯がどういうものか検証してみよう。訴状によると、国民党の金庫番であった劉泰英氏、殷宗文氏が李登輝氏に報告した上で機密費の余剰金を台湾綜合研究院に入れた。台湾綜合研究院は李登輝氏が退任後の拠点にしているので、李登輝氏がその機密費を横領したことになる、という話である。

 この訴状は首を傾げたくなるほどのお粗末な内容だ。まず、先に説明したように外交機密費の一部の運用を民間法人の形で運用することは当時の国家安全会議を経て決めたことであり、李登輝氏一個人が勝手に決めたのではない。さらにその機密費の余剰金を台湾綜合研究院に入れることも李登輝氏の指示ではなかった。そもそも総統の李登輝氏がそれほど細かいことに一々指示を出すことはないのだ。しかし、検察当局は「李登輝氏は“きっと”了承していたにちがいない」との憶測で、一元国家元首を汚職の罪に陥れようとしている。百歩譲って、たとえ李登輝氏が指示したとしても、国会安全会議で決められた機密費の運用ルールに沿った指示がどうして汚職といえるのだろうか。

 この機密費問題は、陳水扁政権時代から「機密費を透明化する」という愚かな指示の下で検察当局に調査させてきたものだった。日本の検察当局も行政の一部門である法務省の所管であるが準司法機関としての伝統があり、台湾と比べれば政治に動かされることは比較的に少ない。だが、台湾の検察当局は政治に強く影響されている。この件は、政治的得点を稼ごうとする陳水扁が功名心から検察当局に徹底的に調べさせたものだが、罪を問うことの出来る証拠は何一つなかった。それでも強引に会計責任者の徐炳強氏を起訴したが、10年前に最高裁で無罪判決が確定している。

●李登輝起訴は馬英九の指示なのか

 そもそも最高裁の無罪判決が下されたこの件に関し、新たな証拠も出さずに起訴するとは何事か。しかも訴状を当事者の李登輝氏へも李登輝氏の弁護士へも送ることなく、検察当局がいきなり記者会見を開いて「犯罪事実」なるものを撒き散らした。挙句の果てに、その記者会見の場から李登輝氏の弁護士を排除したのだ。元国家元首に対する起訴にしてはあまりにもお粗末すぎる。いくら中国の子飼いの馬英九政権とは言え、このような乱暴なやり方は決して台湾社会に馴染まない。李登輝氏を貶めようとする中国的な意図が働いていると多くの台湾人は感じている。

 台湾ではこの起訴は馬英九の指示によるものだという見方が専らである。2008年の総統選挙に勝利した馬英九は当初「尊李路線」をとっていた。「尊李路線」とは李登輝尊重路線である。馬英九は台湾派の支持を得るとともに、自身につきまとう「反日」イメージを払拭するためにも日本に太いパイプを持つ李登輝氏に接近した。

 李登輝氏も最初は馬政権に様々な助言をしていたが、間もなく馬英九の中国一辺倒の政策に強い危機感を抱いた。馬政権はECFA(経済協力構造協定)を強引に結んで台湾を中国経済圏に組み入れたのである。李登輝氏は反馬英九の姿勢を明確にした。彼は「棄馬保台」(馬英九を捨て台湾を守れ)というスローガンを高らかに宣言し、次期の総統選挙で馬英九を落とすよう台湾人に呼びかけたのだ。

 李登輝氏の強い意思表明が独立派の共感を呼び、陳水扁一家の汚職によって低迷気味だったグリーン陣営も久しぶりに活気付いた。それにより民進党の支持率が上がり、民進党陣営は国会議員補欠選挙でも地方選挙でも国民党に大勝した。蔡英文氏が民進党の党内予選で総統選挙候補を勝ち取ってからさらに勢いがついて、20代から30代の若い層では馬英九に10ポイントの差をつけるほどの高い支持率を獲得している。

 味方からは「無能」、台湾派からは「売国」とのレッテルを貼られて、支持率の低迷に喘ぐ馬英九が「李登輝起訴」という禁じ手を使いたくなるのも無理はなかった。なぜならばこれには一石三鳥の効果があるのだ。

 まず、反李登輝感情の強い親中国派を喜ばせ、票を掘り起こす効果がある。続いて、汚職のレッテルを李登輝氏に貼り、民進党の李登輝氏への接近を阻止する離間効果も狙える。最後には機密費問題というパンドラの箱を開けた陳水扁にも責任転嫁ができて、李登輝支持者と陳水扁支持者を反目させることも可能になるわけだ。

●不屈の精神を見せる李登輝氏

 果たしてこの一石三鳥の効果は出ているのか。世論調査によれば、台湾の国民のほとんどがこの起訴には政治的意図が働いていると認識している。民進党総統候補者である蔡英文氏に脅しをかける分断作戦も完全に不発に終わった。起訴翌日の7月1日、蔡英文氏が李登輝氏と一緒に台湾団結聯盟の決起大会に出席していたことが何よりの証明である。李登輝氏もこの集会で、いくら弾圧されようとも屈することはないと力強く宣言した。死さえも恐れないのにこの程度の弾圧に屈するはずはない。台湾には沢山の李登輝がおり、たとえ李登輝が死んでも、次から次へ出てくるはずだと語り、馬英九政権と戦う意志を明確にした。

 李登輝起訴は親中国派を喜ばせたことには違いないが、もっと重要な狙いである民進党と李登輝氏との離間には全く効果がなかった。それどころか起訴の翌日から台湾各地において「守護阿輝伯、打倒馬英九」(李登輝爺ちゃんを守れ、馬英九を打倒せよ)のスローガンが掲げられ、独立派陣営の気勢もかつてないほど高まった。台湾人にとっては90歳にもなる老人をいじめる馬英九はとても許せる代物ではないのだ。

 結果として民進党の支持率がさらに上がり、国民党内部の台湾派勢力を離反させる結末となった。国民党寄りのマスコミは、李登輝起訴によって民進党支持者の結束が高まると同時に、国民党側でも危機感が高まり、支持の喚起に繋がったとコメントしている。つまり李登輝起訴で馬英九陣営が蜂の巣を突っついてしまったことを認めざるを得なかった。

●妻にも見放された馬英九

 ではこの一石三鳥を狙った「李登輝起訴」の黒幕は一体誰なのか。

 馬英九自身が黒幕なのであれば、この作戦はまさに彼の愚かさを真に証明するようなものだ。馬英九の無能は周知の事実であるし、妻の周美青が「全く魅力のない男で、来世があるなら絶対この人とは結婚しない」と公言したほどである。しかし、この甘いマスクと空っぽな頭を持つ男の身辺には幼馴染の知恵袋、金溥聡という人物がいた。

 2008年の総統選挙で馬英九陣営を仕切っていた台湾台南生まれの金氏は「金小刀」と呼ばれ、そのあだ名の通り頭の切れる策士である。彼は台湾人の社会で成長して台湾人の機微をよく理解しているからこそ、長期にわたって馬英九の右腕が務まっているのだ。今回の起訴も金氏の策略ではないかとの観測もあるが、その彼が李登輝起訴後の変化を予想できないとはとても考えにくい。

●黒幕は中国

 答えは一つしかない。馬英九のパトロンである中国だ。民進党に政権を明け渡すことを国民党以上に危惧しているのは他ならない中国である。親中派の馬英九の肩を持つのは当然であるが、台湾を戦争という代価を払わず併合できる一番良い駒が馬英九なのである。無能であるが故に中国の指示に唯々諾々とする馬英九は中国にとり意のままに動かせる都合の良い存在だ。

 馬英九は中国と十八のパイプを持っていると公言しているが、言い換えれば彼に指図できる中国のボスが18人もいるということである。自国を併呑しようとする敵とのパイプを自慢するリーダーがどこにいるのか。しかしながら台湾人は、中国の尖兵を自国のリーダーとして選んでしまった。

 実際に起訴直前の六月に台湾の検察総長である黄世銘が中国へ行き、一週間滞在している。現職の台湾検察最高責任者が秘密裏に中国に行くこと自体が尋常なことではない。その黄世銘が台湾に帰国してからほどなくして李登輝氏を起訴した。台湾団結聯盟の黄昆輝主席は、黄世銘検察総長が中国で李登輝起訴の指令を受けたと批判したが、この批判は決して看過すべきものではない。批判が事実なら、敵国の命令に従って動くという売国行為である。検察総長ともあろう人間がこのような批判を受けた場合、台湾の常識からすれば、名誉毀損で黄昆輝氏を訴えても良いはずである。それにもかかわらず中国には犯罪の取り締まりに関する非公開会議で行っただけだと軽く交わそうとする黄世銘氏の弁解は、逆に疑惑を深めるばかりである。

●傲慢から生じる中国の判断ミス

 中国からの命令であるとすると、李登輝起訴は完全に誤った情報に基づく判断だといわざるを得ない。台湾ほど公開された社会での情報収集は決して困難なことではないはずだ。「李登輝起訴」が逆効果になることを中国がなぜ予想できなかったのかとの疑問も残る。

 これはまさに中国の台湾観測の盲点なのだ。中国はその気さえあれば台湾に関する情報で手に入らないものはないであろうし、台湾の世論動向ももちろん的確に把握できるはずであろう。ところが、中国の台湾観測は常に間違っていた。

 1996年の台湾最初の国民による総統選挙の際のミサイル演習による恫喝や、2000年の総統選挙の直前に朱鎔基首相が表明した「間違った人を選ぶと戦争を選ぶことになる」との恫喝は全く効き目がなかった。台湾国民はその都度、中国の期待とは逆の選択をしたのである。

●利益と恐怖で他国をも操る中国

 諜報工作や情報収集に巧みな中国がなぜ台湾社会の動向を把握できないのか。その原因は、中国人は常に自分たちの目線で台湾人を判断しているからであるといえる。中国の指導者にとって国民の目線などはどうでも良いことであり、彼らは利益と恐怖の心理を上手く利用し自国民を統治してきた。同じように台湾人も利益と恐怖の使い分けで操れると彼らは考えているのだ。中国人が利益で釣られるなら、台湾人も当然釣られる。中国人が恐怖心で屈服するなら、台湾人も当然屈服するという発想である。チベットやウイグルに対する残虐行為でも分かるように、そもそも中国人は自分より格下と思う存在には無法な接し方しかしない民族であるから相手の独自性などは眼中にない。

 その中国にとって司法は権力行使の道具に過ぎないのだ。気にいらない人間を牢屋に入れること自体になんの理由もいらない。つい最近まで牢屋に入れられていた中国の芸術家、艾未未氏はまさにその良い例である。自国の国民だけでなく、他国の司法へも平気に口出しするのが中国なのだ。尖閣沖漁船衝突事件の際には、日本も中国の脅しに屈して漁船の船長を起訴猶予で釈放した。それが何を意味しているのかといえば、数多くの政治家、官僚たちが中国に操られて、自国のためではなく中国の利益のために働いているということである。数年前に起きた上海の日本外交官自殺事件にせよ、自衛隊のイージス艦の情報漏えい事件にせよ、背後には中国の力が隠然と存在しているのだ。

 このモラル無き国による他国の頭脳中枢への侵食は、他国の国力をすべて中国のためにするとてつもない大きな略奪行為となって成功しつつある。中国を訪問したことのある日本と台湾の政治家や官僚たちは全員中国の罠にはめられて、中国の駒になっていると考えたほうがよさそうだ。

●台湾人に通用しない中国の誘惑と恫喝

 そのような中国であるから、台湾人の心情など気にもかけない中国のボスが今回の起訴によって、漁船衝突事件で日本を屈服させたように李登輝氏を屈服させることができ、台湾人を恐怖の淵に陥れられるとの驕りから馬英九に起訴をしろと指図したのであろう。

 しかし、台湾人は中国人とは違う人種だ。中国人に効く誘惑や恫喝が台湾人にも効くとは限らない。それを示すのが李登輝氏の「死ぬことすら恐れないのに、この程度のことを恐れるものか」「李登輝が死んでも台湾にはまだ沢山の李登輝がいる」との言葉だ。この不屈の精神に応えようとする各地の「守護李登輝」(李登輝を守れ)運動はまさに中国人にはない台湾人精神そのものである。それは李登輝精神でもあるのだ。


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