李登輝起訴の背後に何があるのか(上) 林 建良

6月30日昼、台湾の最高法院検察署(最高検)が李登輝元総統を国家機密費を横領したと
して公有財物横領の罪で起訴したというニュースが駆け巡った。

 李元総統は翌日、「私は絶対に打倒されない。台湾の主体性と民主の発展を守るため、
これからも言うべきことは言い続ける。90歳の老人に死は怖くない。たとえ李登輝が死ん
でも、台湾人にはまだまだ数千、数万もの李登輝(の分身)がいて、台湾の民主のために
戦う」と宣言、真っ向から最高検と戦う姿勢を明らかにした。

 台湾問題や日台交流に関心のある人々は、なぜ今になって李登輝元総統は起訴されたの
か、その背景になにがあるのか、誰が仕掛けたのか、と誰もがいぶかしんだ。

 それに応えているのが、林建良氏(メルマガ「台湾の声」編集長、本会常務理事)が月
刊「日本」9月号に発表した論考「李登輝起訴の背後に何があるのか」だ。かなり長い論考
なので、2回にわたってご紹介したい。


李登輝起訴の背後に何があるのか(上)
【「月刊日本」2011年9月号より転載】

                「台湾の声」編集長 林 建良(りん けんりょう)

 2011年6月30日午前、台湾の検察当局は突如記者会見を開き、李登輝元総統を国家安全秘
密口座779万米ドル余りの横領の罪で起訴した。

 このニュースは台湾社会に激震を与えたのみならず、瞬く間に世界のビッグニュースと
なった。「ミスターデモクラシー」と賞賛されている哲人政治家が汚職の罪で起訴される
とはただ事ではない。しかし、この汚職を問われたのは16年も前の外交機密費に関する疑
惑で、重要関係者の無罪がすでに確定している事件なのだ。

◆国際孤児台湾と外交機密費

 台湾が置かれた国際社会の現実が、この外交機密問題の背景にあった。1994年、当時台
湾と国交を結んでいた大国といえる唯一の国、南アフリカが台湾との国交を断絶し、中国
に乗り換えようとしていた。そうなれば台湾にとって外交的大敗北になるだけに、台湾は
南アフリカへの1050万ドルの資金援助要求を呑まざるを得なかった。その資金の出所が「奉
天専案」という機密費である。国連に加入できない台湾が、国家存在の正当性を維持して
いくためには外国からの国家承認が不可欠なのだ。

 だが、中国はあらゆる手で台湾の友邦を切り崩そうとしていた。その最も有効な手段が
金銭外交である。この台湾の弱みを利用して中国に色目を使ったり、台湾から金をゆすり
取ったりする国も少なくはなかった。

 一方、台湾は国民の監督の下で国政を運営しなければならない民主主義の国家でもある。
台湾の国民が、ある程度台湾の国際社会における現実を理解できるとしても、親交ある国
からの常識を超える金銭要求は決して国会の場で議論できるものではない。結果として外
交予算を大幅に超える予算は機密費から捻出する以外にはなかったのだ。今回の機密費問
題の発端はまさにこの典型的な例と言えよう。

 外交予算を超える資金援助の処理が急務となっていた当時、国家安全局局長であった殷
宗文氏がシンクタンク台湾綜合研究院第四局に「戦略與国際研究所」という組織をつくり、
民間法人を通して困難な外交案件を処理すると提案した。この案は総統府に設置されてい
る国家安全会議で了承され、機密性の高い外交案件は台湾綜合研究院第四局を通じて処理
することになった。この措置は台湾の現状からして当然の帰趨であった。

◆機密費を透明化した愚かな指導者・陳水扁

 その後、2000年の総統選挙の結果、台湾は初の政権交代を迎え、民進党の陳水扁が政権
の座についた。政治哲学や理念を全く持ち合わせていないポピュリズム政治屋である陳水
扁は、国民受けの良いことならなんでもやろうとした。

 その最たる例が、情報開示の流行に乗って打ち出した機密費の透明化だ。そもそも「機
密費を透明化する」ことは「黒猫を白猫にしよう」ということに等しい。かくも愚かしい
ことを永遠の優等生を自称する陳水扁はやったのだ。

 発端は「壱週刊」による機密費暴露事件であった。2002年3月19日、香港資本の週刊誌
「壱週刊」が「奉天専案」を暴露して台湾の政界を震撼させた。まともなリーダーである
のならば国家秘密を暴露した「壱週刊」を法的処置で厳罰に処すだろうが、陳水扁は「例
え政府が無くなっても報道の自由を守り通す」と「壱週刊」を不問にしたのみならず、さ
らには「陽光法案」(情報公開法)を作り、機密費を透明化した。

 後に彼自身がこの法律によって機密費の使い道を調べられ、マネーロンダリングの罪に
問われて牢屋に入れられてしまう。機密費の透明化に伴い台湾綜合研究院第四局も閉鎖さ
れ、「戦略與国際研究所」にあった機密費も外交部に戻された。外交部の予算なら国会審
議に応じて公表せざるを得ないので、透明化するというわけである。この台湾の現実を無
視した陳水扁の愚策が今回の李登輝起訴の一因となったのだ。

 では、今回の起訴の経緯がどういうものか検証してみよう。訴状によると、国民党の金
庫番であった劉泰英氏、殷宗文氏が李登輝氏に報告した上で機密費の余剰金を台湾綜合研
究院に入れた。台湾綜合研究院は李登輝氏が退任後の拠点にしているので、李登輝氏がそ
の機密費を横領したことになる、という話である。

 この訴状は首を傾げたくなるほどのお粗末な内容だ。まず、先に説明したように外交機
密費の一部の運用を民間法人の形で運用することは当時の国家安全会議を経て決めたこと
であり、李登輝氏一個人が勝手に決めたのではない。さらに、その機密費の余剰金を台湾
綜合研究院に入れることも李登輝氏の指示ではなかった。そもそも総統の李登輝氏がそれ
ほど細かいことに一々指示を出すことはないのだ。しかし、検察当局は「李登輝氏は“き
っと”了承していたにちがいない」との憶測で、一元国家元首を汚職の罪に陥れようとし
ている。百歩譲って、たとえ李登輝氏が指示したとしても、国会安全会議で決められた機
密費の運用ルールに沿った指示がどうして汚職といえるのだろうか。

 この機密費問題は、陳水扁政権時代から「機密費を透明化する」という愚かな指示の下
で検察当局に調査させてきたものだった。日本の検察当局も行政の一部門である法務省の
所管であるが準司法機関としての伝統があり、台湾と比べれば政治に動かされることは比
較的に少ない。だが、台湾の検察当局は政治に強く影響されている。この件は、政治的得
点を稼ごうとする陳水扁が功名心から検察当局に徹底的に調べさせたものだが、罪を問う
ことの出来る証拠は何一つなかった。それでも強引に会計責任者の徐炳強氏を起訴したが、
10年前に最高裁で無罪判決が確定している。

◆李登輝起訴は馬英九の指示なのか

 そもそも最高裁の無罪判決が下されたこの件に関し、新たな証拠も出さずに起訴すると
は何事か。しかも訴状を当事者の李登輝氏へも李登輝氏の弁護士へも送ることなく、検察
当局がいきなり記者会見を開いて「犯罪事実」なるものを撒き散らした。挙句の果てに、
その記者会見の場から李登輝氏の弁護士を排除したのだ。元国家元首に対する起訴にして
はあまりにもお粗末すぎる。いくら中国の子飼いの馬英九政権とは言え、このような乱暴
なやり方は決して台湾社会に馴染まない。李登輝氏を貶めようとする中国的な意図が働い
ていると多くの台湾人は感じている。

 台湾ではこの起訴は馬英九の指示によるものだという見方が専らである。2008年の総統
選挙に勝利した馬英九は当初「尊李路線」をとっていた。「尊李路線」とは李登輝尊重路
線である。馬英九は台湾派の支持を得るとともに、自身につきまとう「反日」イメージを
払拭するためにも日本に太いパイプを持つ李登輝氏に接近した。

 李登輝氏も最初は馬政権に様々な助言をしていたが、間もなく馬英九の中国一辺倒の政
策に強い危機感を抱いた。馬政権はECFA(経済協力構造協定)を強引に結んで台湾を中国経
済圏に組み入れたのである。李登輝氏は反馬英九の姿勢を明確にした。彼は「棄馬保台」
(馬英九を捨て台湾を守れ)というスローガンを高らかに宣言し、次期の総統選挙で馬英
九を落とすよう台湾人に呼びかけたのだ。

 李登輝氏の強い意思表明が独立派の共感を呼び、陳水扁一家の汚職によって低迷気味だ
ったグリーン陣営も久しぶりに活気付いた。それにより民進党の支持率が上がり、民進党
陣営は国会議員補欠選挙でも地方選挙でも国民党に大勝した。蔡英文氏が民進党の党内予
選で総統選挙候補を勝ち取ってからさらに勢いがついて、20代から30代の若い層では馬英
九に10ポイントの差をつけるほどの高い支持率を獲得している。

 味方からは「無能」、台湾派からは「売国」とのレッテルを貼られて、支持率の低迷に
喘ぐ馬英九が「李登輝起訴」という禁じ手を使いたくなるのも無理はなかった。なぜなら
ばこれには一石三鳥の効果があるのだ。

 まず、反李登輝感情の強い親中国派を喜ばせ、票を掘り起こす効果がある。続いて、汚
職のレッテルを李登輝氏に貼り、民進党の李登輝氏への接近を阻止する離間効果も狙える。
最後には機密費問題というパンドラの箱を開けた陳水扁にも責任転嫁ができて、李登輝支
持者と陳水扁支持者を反目させることも可能になるわけだ。

                                   (つづく)



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