【独立運動に投身した台湾人】王育徳伝(三)

【独立運動に投身した台湾人】王育徳伝(三)

国民新聞より転載

王明理 台湾独立建国聯盟 日本本部 委員長 

(幼少期・青年期・大正十三年〜昭和二十年)

育徳は末広公学校、台南一中、台北高等学校(台高)で学んだ。台高は、日本の旧制高等学校の一つであった。台高には優秀な教授陣が揃っていて、生徒たちも優秀で、自由闊達な雰囲気であった。育徳は台高の生活を心から愛し、この学校で学んだことが自分という人間の基礎を作ったと、後々までよく言っていた。また、のちに日本に亡命したあとの育徳の人生は、数多くの台高の同窓生や恩師によって、支えられたのである。
 
育徳が台高に入学して二年目の昭和十六年(一九四一)十二月、日本は太平洋戦争に突入した。そして、戦局が悪化するにつれて、青年を早く社会に送り出すために、育徳たちの学年は、三年生の九月で繰り上げ卒業となった。

 その三年生の時、育徳たち文甲クラスの学生たちを、長谷川清台湾総督が総督官邸に招いたことがあった。その日、長谷川総督は学生たちにこう語った。
「君達はいずれ戦争にいくことになるだろうが、命を粗末にしてはいけない。君達は将来の日本や台湾の社会建設に重要な貴重な人材だから、命を大切にしなさい」

 戦時下でありながら、海軍大将でもあった長谷川総督が、高校生たちに敢えてこのように訓示したことから、長谷川総督が開明的な考えの持ち主であったことが分かると同時に、台高の学生が如何に期待される存在であったかがよく分かる。

 卒業後、育徳は、東大に進学したが、戦況の悪化で、学友達は戦地に送られ、満足な授業を受けられない状況であった。台湾人の場合、育徳の一学年上の者は志願兵制度で戦場へ行き、一学年下からは徴兵制を適用されたが、なぜか、育徳の学年だけが制度の狭間で兵役を免れた。

昭和十九年夏、育徳は疎開のため台湾に帰り、終戦までの約一年、嘉義市役所の庶務課に勤めた。台湾も、米軍の空襲の標的にされ、建物はかなり破壊されたが、結局、米軍の上陸がないまま終戦を迎えた。台湾人は、志願兵や徴用を合せて、20数万人が日本兵として戦地に赴き、うち3万人余が戦死している。戦争に負けたと聞いた時の台湾人の感情は、ほぼ日本人と同様であった。戦争に負けてしまったという哀しみや脱力感と、長かった戦争が終わったという解放感と、これから先、どうなるのだろうという不安である。

しかし、しばらくして、日本が台湾から引き揚げ、代わりに中国の軍隊が台湾を接収に来ると聞いたとき、台湾人は単純に喜んだ。「台湾人は祖国の胸に帰るのだ」という中国人の呼びかけを無邪気に信じたからである。当時の台湾人は、自分達と中国人との間の差異に無知であった。日本精神の薫陶を受けた台湾人は、中国人の本音と建て前の使い分けを見抜くことができなかったのである。


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