【独立運動に投身した台湾人】王育徳伝(六)

【独立運動に投身した台湾人】王育徳伝(六)

国民新聞より転載

王明理 台湾独立建国聯盟 日本本部 委員長 

一方、王育徳は、戦後、台南第一高級中学(台南一中)の社会科の教師を務めていた。その傍ら、演劇活動に熱を入れ、原作、脚本、監督を担当する他、自ら主役もこなした。劇中で政府を皮肉って、聴衆の喝采を浴びるなど公演は大成功をおさめていたが、このことが、国民党に睨まれる結果となったのである。

「二・二八事件」のあとは、演劇活動もできなくなり、教師の仕事だけを続けていたが、いつ連行されるかは誰にも分からない時代であった。そんななか、1949年7月に田舎に隠れていた演劇仲間が逮捕され、「次は王先生の番ですよ。早く逃げなさい」とこっそり忠告してくれる人がいた。育徳は妻と相談して、とにかく命の危険を回避するために台湾を離れる決心をし、脱出費用を妻の兄弟たちが協力して急いで準備してくれた。

パスポートやビザを申請すれば、逃亡のおそれありと警戒されるので、取得することは不可能であったため、出入境許可証だけで行くことができる香港に、遊びに行く風を装って出ることにした。しかし、本当に行きたいのは日本であった。

育徳は、妻と生後10ヶ月の娘を王家の大家族の中に置いて、慌ただしく旅立った。この時には、台湾を離れても、一年位で帰ってくるつもりであった。当時、アメリカ大統領トルーマンは、蒋介石の支援をやめると噂されていたので、「アメリカの支援が無くなれば、国民党政府も長くはもたないだろう」と考えたからだ。まさか、自分がもう二度と台湾に戻って来られないとは思ってもいなかったのである。

育徳は、香港で廖文毅氏(のちの台湾臨時政府大統領)のところに居候しながら、三週間も日本に密かに運んでくれる船を待った。当時、香港では密輸ビジネスが行われていて、友人の邱永漢が密輸商人との橋渡しをしてくれた。そして、密輸品と共に密航者も引き受けてくれる船に乗りこんで、下関港からひそかに上陸したのである。正式に政治亡命として特別在留許可を得たのは、5年後の1954年で、それまでの間は、いわゆる密入国者、不法滞在者として暮らしたのであった。密入国が露見すれば、強制送還され、ただちに処刑されることは明らかであった。


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