真相求めて70年/3 故郷に連れて帰りたい 日本人犠牲者の遺族
毎日新聞2017年2月24日 東京夕刊
http://mainichi.jp/articles/20170224/dde/007/040/034000c
台湾北部・基隆港に近い和平島。戦前の日本統治時代は社寮島と呼ばれ、最盛期には沖縄出身者約500人が暮らした。国民党政権が台湾住民を武力弾圧した1947年の「2・28事件」では目の前の海に数え切れない遺体が浮かんだという。島の一角にある無縁仏の遺骨を納めた霊廟(れいびょう)「万善(まんぜん)公廟」が悲劇を伝える。
<山と海を見れば、故郷を思い出す/お父さんと別れて/私はあなたの年齢を超えてしまいました/だけど、あなたも故郷の山と海を忘れてはいないでしょう>
昨年2月28日、島の霊廟前で沖縄県・与那国島出身の徳田ハツ子さん(79)=那覇市=が自作の歌詞を付けた民謡を与那国方言で歌った。事件に巻き込まれた父の仲嵩実(なかたけみのる)さん(当時29歳)への思いを込めた。
事件では少なくとも沖縄出身の日本人4人が犠牲になったとみられている。仲嵩さんはその一人。長女のハツ子さんは父の遺骨も廟にあると考えている。
47年2月末ごろ、船員だった仲嵩さんは石底加禰(いしそこかね)さん(同39歳)と、船のエンジン部品を入手するために与那国を出港。社寮島の漁港に到着後、国民党軍の兵士に捕らえられ、殺害されたとみられている。同じころ、別の船で寄港したハツ子さんの夫、金一(きんいち)さん(88)は台湾人船長が危険を察知し、与那国に逃げ延びた。
戦後、与那国は台湾との交易で活況に沸き、仲嵩さんは料亭も営んでいた。ハツ子さんは「父は、私と弟の光明(故人)を両ひざに抱き、『娘と息子、私の財産だよ』と頭をなでてくれた」と懐かしむ。
事件後、家族の生活は一変した。仲嵩さんの妻のテツさん(故人)は親類らから「台湾に行かせたからだ」と責められ、小学3年だったハツ子さんら子ども3人と引き離された。仲嵩さんの母マカトさん(故人)は、孫のハツ子さんが中学の修学旅行で石垣に行くのを許さなかった。子どもと引き離されて石垣に渡ったテツさんに会うと勘ぐったためだ。
ハツ子さんの長女、當間(とうま)ちえみさん(60)は約10年前、新聞で事件の記事を読み、「祖父が巻き込まれたのはこれだ」と確信した。ハツ子さんらは昨年11月、台湾当局に犠牲者として被害認定と損害賠償請求を申請した。今月28日に台北で行われる追悼式典に親類8人で出席する。「父の遺骨を見つけ、故郷に連れて帰りたい。解決するまで、何度でも台湾に行く」と切なる願いを込めた。【台北・鈴木玲子】=つづく