二〇一五年七月二十二日
文部科学大臣の下村博文(しもむらはくぶん)先生、会場にお集まりのたくさんの国会議員の先生方、秘書の皆様、こんにちは!台湾から参りました李登輝です。
本日、こちらの国会議員会館においてお話しする機会を得ることができ、大変光栄に感じております。せっかくのこの機会を生かし、本日は、台湾がこれまで如何にして主体性を確立してきたか、中国式の「託古改制」から台湾の「脱古改新」というパラダイムの転換、そしてこれから台湾が進めるべき「第二次民主改革」と憲法改正について、皆様にお話ししたいと思います。
大正十二年、台湾北部の淡水という小さな町に生まれた私は、純粋な日本の教育を受けながら育ちました。少年時代から高校時代の私は、古今東西の先人による書物や言葉にふんだんに接する機会を得ることが出来ましたが、これはまさに当時の、教養を重視する日本の教育による賜物と今でも感謝しています。
私は京都帝国大学で学び、その後も、農業経済を研究する一介の学者に過ぎませんでした。ところが、ふとした偶然から、後に総統となる蒋経国の目に留まり、疲弊していた台湾の農業を復興させるべく、政治の世界へ入ることになったのです。
そして、思いがけずも、副総統だった一九八八年、蒋経国総統の急死により、結果的には総統を十二年務めるという偶然のチャンスを得ることになりましたが、そこで私は台湾のために全力で働こうと決心しました。そして、台湾がいつの日か主体性を確立させ、台湾の人々の尊厳が高まることだけを望んで職務に励んできたのです。
一九四五年、台湾を統治していた外来政権たる日本は大東亜戦争に敗れ、台湾を放棄するに至りました。台湾は勝者である米英などの連合国によって中国国民党による占領下に置かれることとなりました。「中華民国」という別の外来政権による統治が始まったのです。
当時、台湾社会を取り巻いていた、大日本帝国による「天下は国家の為に」という価値観が、一夜にして「天下は党の為に」を標榜する国民党の中華民国に取って代わられることとなり、台湾における新旧の外来政権の交替がなされたのです。
ただ、五十年に及ぶ日本の統治によって高度に現代化されていた台湾にとって、文明水準の低い新政権による統治は、当然のごとく台湾の政治や社会に大きな混乱をもたらしました。
あっという間に腐敗した国民党政府への不満を爆発させた民衆を、武力によって押さえつけた二二八事件の原因は、台湾と中華民国という二つの異なる「文明の衝突」といえるでしょう。
数百年来、ずっと外来政権の統治下にあった台湾は、一九九六年、史上初めて、国民が選挙で総統を直接選んだことによって、ついにその軛(くびき)から逃れることが出来ました。日本時代、学生は教室で台湾語を話すと正座させられる罰を受けました。しかし、日本の統治が終わり、国民党政権の時代になっても、同じように罰を課されることに変わりはありませんでした。こうしたところに台湾人に生まれた悲哀を深く感じます。
つまり、それまでの外来政権、例えば日本時代には、台湾人は日本人と比べると、その待遇には差別がありました。しかし、中華民国は、台湾が「祖国に復帰した」とたたえ、台湾人を「同胞」と呼びつつも、やはり奴隷たる存在に貶(おとし)めていたということです。台湾人は努力して自分の道を歩み、自分たちの運命を切り開くことが叶わなかったのです。こうした状況下で、台湾人の間には「台湾人とは何ぞや」という問題がふつふつと沸き起こって来ていました。
日本統治下の台湾人は学術的に言う「marginal man(マージナル・マン)」、つまり、異なる複数の集団に属しつつも、そのいずれにも完全には所属することができず、それぞれの集団の境界にいる人間でありました。個人の尊厳というものも存在しなかったように思います。
その後、二二八事件の発生によって、台湾人自身が「台湾人とは何ぞや」という反問を徹底的に繰り返すようになると同時に、外来政権ではなく自分たちの政権による主体性を確立しなければならないと悟るのです。さもなくば、尊厳ある台湾人としての独立した存在になることは出来ない。こうした過程を経ることによって「新しい時代の台湾人」としての自覚が覚醒したのです。
そうした意味では、「台湾人」による強固な「アイデンティティ」の確立は外来政権による統治下の産物ともいえるでしょう。まさに、台湾人が自身を「独立した台湾人」とする絶対意識を確立する契機となったのが外来政権による統治なのです。
戦後、台湾を統治した国民党の中華民国もまた外来政権でした。そして中華民国も中華人民共和国も、中国の歴史上、黄帝以後の夏・商・周から明朝、清朝まで脈々と続いてきた帝国体制の延長と変わることはありませんでした。
こうした体系は「法統」と呼ばれ、政権の正当な継承を意味します。この「法統」から外れたものが化外の民であり、夷狄の国々なのです。中国五千年の歴史すなわち「ひとつの中国」の歴史であったとも言えるでしょう。
そしてこれらの帝国にすべからく共通していたのが「古」に託して制度を改めるという「託古改制」の思想だったのです。
現在の中華民国、中華人民共和国ともに中国五千年の歴史の延長にすぎず、ここから見てとれるのは、中国はいまだに進歩と退歩を絶え間なく繰り返している政権にすぎないということです。ドイツの社会学者、マックス・ヴェーバーが中国をして「アジア式の発展停滞」の典型と唱えることがありますが、これは決して不合理とは言えません。
孫文が建国した「中華民国」は理想を宿した新しい政体ではあったものの、政局の混乱により、その理想は夢と終わり、基本的には中国式の「法統」の延長線上にある政体に成り果ててしまいました。中華人民共和国は、その源をソビエト共産党に発するものの、「中国」という土地に建国された以上、中国文化の影響から逃れられずにはいられませんでした。
共産革命が中国にもたらしたのは、中国をアジア式の発展停滞から脱出させることではなく、中国伝統の覇権主義の復活と、誇大妄想を有する皇帝制度が再び生まれただけのことです。
中国五千年の歴史は、一定の空間と時間のなかで、一つの王朝から次の王朝へと連結する歴史であり、新しい王朝といえども前の王朝の延長にすぎません。歴代の皇帝は権力の座の維持、国土の拡大、富の搾取に汲々とする以外、政治改革への努力を払うことは稀でありました。これこそがいわゆるアジア的価値観、アジアン・バリューなどと呼ばれるものです。
中国の歴史上、政治改革といえるものはいくつかありましたが、惜しむらくはどれも成功しませんでした。歴代皇帝の統治過程を見てみると、どの王朝も疑いなく「託古改制」のゲームに終始していると言わざるをえません。「託古改制」とは言うものの実際は「託古『不』改制」と言うほうがより事実に即しているでしょう。
こうした五千年の閉鎖された皇帝政体に対し、魯迅は次のような見方をします。
「これは、閉ざされた空間で亡霊が入れ替わり演じる寸劇であり、この国がよたよたと歩みを進める、つまらぬ輪廻の芝居である」。
また、魯迅は中国人の民族性を的確に表しています。
「中国人とは『騒ぎは率先して起こさず』、『禍の元凶にならず』のみならず、『率先して幸福にならず』の民族である。これではあらゆる物事の改革を進めることが出来ず、誰も先駆者や開拓者の役割を担おうとしない」。
私は、この魯迅の観察はかなり正鵠を得ていると感じるのです。
ここまで私が述べてきた、中国の「法統」による「託古改制」は、もはや近代の民主化の潮流に見合わないことは明らかでしょう。そこで私は、新しい改革の方向性として「脱古改新」という新しい概念を提唱したいと思います。
「脱古改新」とは、「古」を脱し、新しく改めるということで、その目的は、「託古改制」の害毒であるアジア的価値を捨て去ることにあり、「ひとつの中国」、「中国式法統」による束縛から逃れ、台湾を主体性ある民主国家にすることにあります。
一九八八年、私が総統に就任した際に描いた、台湾の国家戦略の背景を申し上げましょう。
この当時の台湾における、国民党政権による独裁統治は、まさにアジア的価値観の見本とも言えるような状況でありました。政権内部には、保守と革新の対立、閉鎖と開放の対立、国家的には民主改革と独裁体制の衝突、台湾と中華人民共和国の間における政治実体の矛盾など、深刻な問題が山積していました。特に、民主化を求める国民の声は日増しに大きくなっていたのです。
全体的に見ると、これらの問題が抱える範囲は非常に広範でしたが、その根本的な問題は、台湾の現状に即していない「中華民国憲法」にあったと言えます。そのため、私はこれらの問題解決のためには憲法改正から始めるしかないと考えたのでした。
当時、私は国民党主席を兼務しており、国民党が絶対多数の議席を有していました。言い換えれば、当時の国民党は絶対的に優勢な政治改革マシンであったわけです。
ただ、問題は党内部の保守勢力でした。保守勢力は時代遅れの憲法への執着を隠さず、その地位を放棄することにも大反対でした。民主改革を求める民衆の声には耳を貸さず、ただ政権維持だけに固執したのです。
さらに、国民党を牛耳る有力者たちは「反攻大陸」、つまり、いつの日か中国大陸を取り返すという、時代遅れの野望を捨てきれずにはいられませんでした。
そこで私は一計を案じ、「国家統一綱領」を制定して「中国の自由化・民主化・所得配分の公平化が実現された際には、統一の話し合いを始める」という厳格な規定を設けました。
私は、中国が自由化、民主化されるような日は、半永久的に来ないと思っていましたし、仮にそうなった場合には、その時にお互い再び話し合えば良いと考えたのでした。ただ、この国家統一綱領を作ったおかげで、それまで私に猜疑心を抱いていた国民党の有力者たちは安心して総統の私を支持してくれるようになったのです。
こうした一連の民主化の過程において、私は幾多の困難にぶつかったとはいえ、終始国民からの支持を受けながら、経済成長の維持、社会の安定を背景に、ついに一滴も血を流すことなく、六度にわたる憲法改正によって「静かなる革命」を成就させました。
常に「人々が夜、安心して眠れる社会にしたい」とばかり考え、夢中で務めた十二年間の総統でしたが、まがりなりにも台湾に民主社会を打ち立てることができたのは、私の生涯の誇りとするところです。
さて、中華民国憲法の改正には、国会議員にあたる立法委員のすべてを台湾の有権者による選挙で選出すること、有権者の直接投票による総統選挙なども含まれ、これらを相前後して実現させていきました。
そして、「民主主義」という大きなドアを開けたのみならず、「中華民国」を「中華民国は台湾にあり」という新しいステージへと押し上げたのです。長らく追い求めてきた台湾の主体性を有した政権はこの頃に完成されたと言えるでしょう。言い換えれば、台湾はもはや「ひとつの中国」の軛(くびき)を脱したと同時に、「中国式法統」の道を突き進むことをやめて「アジア的価値」の神話を打ち破ったのです。
また、中国は「ひとつの中国」、「台湾は中国の一部分」という主張を繰り返していますが、我々は決して同意することは出来ません。
私は一九九一年、歴史問題を解決し、対立の火種を取り除き、平和で安定的な両岸関係を築くべく、両岸は交戦中であると規定した「動員戡亂時期臨時条款」の撤廃を宣言し、国共内戦を終わらせました。中国と台湾が相互に相手の政治実体を認め、さらに台湾が有効的に台湾を統治し、同様に中国もまた中国大陸を統治していることを承認するようにしたのです。
その後、一九九八年には台湾省を凍結しましたが、これは事実上の台湾省廃止でした。台湾省とは、広大な中国大陸を統治するのは中華民国であり、台湾はその一つの「省」にすぎないという虚構と矛盾の上に置かれていたのです。このような状態を放置していたら、いつまでも台湾と中国は一体であると国際社会に誤解を与え続けるようなものです。そこで、台湾と中国は別個の存在である、というアピールを込めての台湾省凍結でした。
そして一九九九年、私は台湾と中国の関係について、より一歩踏み込んだ表現をすることになります。ドイツのラジオ局によるインタビューを受けることになった際、ラジオ局から事前に送られてきていた質問に対し、新聞局が提出してきた想定問答には「台湾は中華民国の一省である」というような、到底納得できない記述になっており、私は自ら鉛筆を取って、より明確に「台湾と中国は『特殊な国と国との関係』である」と言い切るよう原稿を書き直し、台湾と中国の境界をより鮮明にしたのです。
半世紀以上もの間続いた、中国と台湾の曖昧な関係をきちんと整理することで台湾に長期の安定がもたらされるようにと考えたためです。蛇足ですが、この『特殊な国と国との関係』という表現は、ある日本人外交官の発言にヒントを得て考え出したものです。
台湾の民主改革の成功、対中国関係の整理は「託古改制」から「脱古改新」への転換によって実現されました。そして、アジア的価値を否定するという目標を達成し、「新しい時代の台湾人」という新概念を確立させたことは、あらゆる価値観における価値の転換の実現でもありました。
これは、自然科学の概念を応用すれば、台湾のパラダイム、つまり枠組みが転換したと言えましょう。パラダイムという言葉を日本語で表現するにはなかなか難しいのですが、「ある時代に支配的な、物の考え方や認識の枠組み」と訳せるかもしれません。
例えば、アインシュタインが相対性理論を唱えるまで、科学者たちはニュートン力学という枠組みのなかで、その理論を発展させる研究を行ってきました。しかし、時代が進み、ニュートン力学というパラダイムでは解決できない例外的な問題が登場し、古いパラダイムによる支配が揺らぎ始めます。すると、新しいパラダイムであるアインシュタインの相対性理論が、古いパラダイムにとって代わり、根本的な変革に至るのです。
こうしたパラダイムの概念を台湾社会にあてはめてみると、一九八〇年代後半から九〇年代にかけての台湾では、長期にわたる経済的繁栄、社会分配の公平性が進められた結果によって「少数による統治下における民族の対立」という古いパラダイムが打破され、「多元的な民族が共存する社会」という新しいパラダイムに取って変わられました。
それと同時に、政治の民主化、権力の本土化という変革によって、空虚な「大中国」という伝統的アイデンティティに疑問が投げかけられた結果、主体性を有した「台湾アイデンティティ」という新しいパラダイムが生まれてきたのです。
これまでお話ししてきた、台湾の「脱古改新」という歴史における大事業の成功は、台湾のパラダイムの転換作業でした。それによって台湾の社会は新しい局面を迎え、民主社会という時代に突入することとなりましたが、近年、この当時の第一次民主改革の成果が極限に達していることを伺わせるような場面が多々生じてきました。
一九八八年の戒厳令解除後、言論が自由となり、国民党による独裁体制は崩れ、二〇〇〇年には平和的な政権交代も成されました。これによって台湾は、民主主義への移行が最も成功した例となり、経済面でも自由化、多元化が進みました。これらすべてが第一次民主改革の成果といえるでしょう。
しかし、ここ数年来、民主主義の発展は疲弊を呈し、退化の兆しさえみせています。政党間には理性を失った無意味な対立が起こり、指導者は地に足が着いていない無責任な政治家になってしまいました。司法は公正さを失い国民の信頼をなくしています。第一次民主改革の成果はもはや限界に達しており、超えることのできない障害にぶつかっていると言えるでしょう。
民主化以後、二度にわたる政権交代の経験は現在の民主体制そのものに大きな欠陥があることを露呈しました。代議制度がうまく機能しておらず、国民の声が全く反映されていないのです。政府は国家や国民の利益ではなく、党の利益ばかりを追い求めている有り様です。
また、中央政府と地方自治体の連携がなされておらず、このような民主体制は、新たな改革に乗り出さない限り国家の重大な問題を解決することができないばかりか、さらに大きな問題を誘発することにもなりかねません。
そのため、台湾には憲法改正を含む、第二次の民主改革が必要とされているのです。改革を求める声は社会、特に若者たちの間からも大きく上がっています。
現在の中華民国憲法では、総統は直接選挙で選ばれることになっていますが、憲法上では、権力の範囲に関するはっきりとした規定が存在しません。すべては総統個人の民主的な素養、自我の抑制を求めるしかない状態です。憲政主義の大原則である「権力分立」や「権力の抑制と均衡」に照らせば、民選総統の権力には制限を設けるべきです。
現在の台湾の総統の権力が大きくなりすぎているという問題点をはっきりと浮き彫りにしたのが、昨年三月に起きた「ヒマワリ学生運動」でした。
それまでも、馬英九総統の主導で中国との様々な経済協定が結ばれていましたが、密室協議で強引に中国との「サービス貿易協定」を結ぼうとした政府に対し、学生たちの怒りが爆発し、立法院の議場占拠という前代未聞の事態になったのです。
彼らが呼びかけた抗議デモには、五十万人の人々が集まりましたが、改革を求める民の声がそれほど大きくなっていることの裏返しです。
ただ、その一方で、「緊急事態条項」の創設も推し進めなくてはなりません。日本でも、東日本大震災から四年以上が経ち、迅速な救援活動や物資配給を可能にするため、政府に一時的に権限を集中させる「緊急事態条項」が憲法上に規定されていないという欠陥が指摘されていますが、中華民国憲法にも同様の問題点があるのです。大規模な自然災害などの発生時に、憲法保障の空白が生じる事態を避けるためにも、この点を早急に改善する必要があるのです。
これまでお話ししてきた通り、私が総統在任中に推し進めた第一次の民主改革は、独裁体制を崩壊させ、民主社会を打ち立てたという点では成功をおさめたと言えるでしょう。
私はこれらの成果によって台湾を、アジアを代表する民主国家に生まれ変わらせたことを一生の誇りと自負しておりますが、しかしながら、私はこうした自負に決していつまでも酔っているわけにはいきません。
今や、第一次民主改革の成果は、極限に達しており、台湾はまさに「第二次民主改革」が必要とされているのです。
私は現在、九十二歳、長く見積もっても、台湾のために働けるのはあと五年くらいだろうとも感じています。残りの人生は、台湾に、より一層成熟した民主社会を打ち立てるために、捧げたいと思っております。
台湾はこれからも、日本と同じく、自由と民主という価値観を至上の価値としつつ、日本と手を携えて国際社会の発展のために貢献していきたいと考えております。日本の国会議員の先生方には、どうか台湾への関心を引き続き寄せていただきたいと願っております。
以上をもって、本日の私の講演を終わりたいと思います。
ご清聴ありがとうございました。