【望郷】故郷台中の川

【望郷】故郷台中の川

ある湾生の回顧録

メルマガ遥かなり台湾より転載

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【編集部】

小誌林建良編集長も台中生まれの台中育ち、中学までは緑川の畔に住んおり、
その後、柳川の近くに移りました。

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●故郷の川

             島崎義行

台中は、台湾の小京都と言われただけあって、整然と区画された街中を柳川と緑川が流れ、郊外にも
旱溪、大肚溪、それによく名前のわからない大小の河川に恵まれていました。緑川、柳川は、柳の緑色
と岸から川面に向かって、垂れ下がっているブーゲンビリア(いかだかずら)の華麗な紫とが、鮮やか
なコントラストを示して印象的でした。

緑川は、北屯方面から出て、台中公園と第三大隊の間を流れ、街中を抜け老松町に入ると、山線の土手
下にしばらく並行して、四丁目から東に九十度カーブして専売局の裏あたりから、郊外の団圃の中を緩や
かに屈折しながら頂橋付頭を過ぎ、最後は烏溪に吸収されていました。

今、奈良にいる渋谷香代子さん(同級生)や森村さんの家は、みな川沿いにありました。東本願寺も、
四丁目の橋のすぐ袂にあり、先輩の鶴岡にいる本間辰五郎さんは、このお寺から明治に通学していました。

昔は、柳川も緑川も本当に清流と言ってよいほど水がきれいでした。台中は、もともと地下水が豊富なと
ころで、水道の水も地下水を汲みあげていました。緑川、柳川の河床のいたる所に湧き水が噴出していて、
川岸の階段を下りていくと、湧き水の周りに石囲いをした洗濯場がありました。上が白で下が黒いの服を
まとった台湾婦人が、石にどっかと腰を下ろし、両脚を横に広げ、ズボンを股のあたりまでまくり上げて、
平たい石に洗濯物をのせ石鹸をぬりつけて、叩き棒でピチャピチャと数回叩いてはひっくり返して水に着け、
また石鹸をぬって叩いていました。ダブダブの黒いズボンの間から真白な脚が内股のあたりまで見えると、
久米の仙人ならぬ凡俗のわたくしなど、自転車ごと危うく川底へ転落しそうになるのでした。

柳川も、北屯の方から流れてきて、柳町をほぼ一直線に流れ、陸軍墓地の裏で、九十度一旦師範の方に
曲がり、すぐまた向きを変えて南屯を通り、最後は烏渓に注いでいました。
柳川が、街中に入る一番北の川沿いに西本願寺があり、たしか水上さんと言ってとても有難い声でお経を
読んでくれた和尚さんがいました。西本願寺から少々下って橋を渡り少し西寄りの所に、小西湖という高
級台湾料亭がありました。緑川にも酔月楼がありましたが、夜になると毎夜のように、胡弓や月琴の音が
風に乗って流れてきました。裾割れの長衫が肉体に密着し、肢体の曲線が魅力的でしたが、なにしろ学生
の身、財布の中に五円と入ったことのないわたくしですから、風とともに流れてくる脂粉の香を嗅ぐだけ
で満足せざるを得ませんでした。それと小西湖や酔月楼のような高級料亭には、チン蹴りの秘技を持って
いる老鰻(ローモア)の用心棒がいると聞かされていましたから、とてもひやかすなどという大それたこ
とをする勇気はなかったのです。

柳町に住んでいた頃、すぐ川向に楽舞台という劇場がありました。京劇の公演が始まると満員札止めの
盛況で、あの独得の隈取り、立ち回りが珍しく、わたくしは川向いのジップンギナアというので、よくペ
ロンコで入れてもらったものです。柳町の家の裏に第二市場があり、安西畳屋さんや、梅木智先生の家も
すぐ近所でした。楽舞台から下ると、青果会社、台中病院と川沿いに続き、陸軍墓地の裏あたりから流れ
が澱みはじめ、水も汚れていました。

川端町に住んでいた頃、警察官舎の人たちは、我々が通称アメ屋の橋と呼んでいた付近は、とても良い
魚釣り場でした。浅野君のお父さんは休日によく弘さん、守さんの兄弟を連れて魚釣りに行ってました。
浮き草を竹竿でかき分けて、撒き餌のヌカ団子を投げ込んでいる姿を羨ましく眺めたものです。私も一度、
夕立ちで俄に増水し、濁りはじめた時、アメ屋の水車小屋から出る水が、柳川に落ち込む場所に投網をぶ
ったところ、網一面真白になるぐらい魚が入り、一網でバケッツがいっぱいになったことがありました。

柳川の他に、師範の裏や農事試験場の裏にも、魚、鯉、オイカワ、ギュウギュウ、川エビ、スッポン、
鰻などのいる川が流れていました。台湾人の川エビ職漁者は、ヘエーランと言って、竹で編んだ小型の
エビ胴に糠団子の焼いたのを入れて、川底に沈めて置き、翌朝早く挙げに行ってました。まだ水の滴る
エビ胴を天秤棒がくの字に撓うぐらい担いでいる姿を、皆さんも一度や二度みたことがおありになると
思います。

休みの日には、あの辺の川にエビ捕りに行くと、とく武藤さんの正ちゃんに会いました。仕掛けは
簡単で、八番線で直径五十センチぐらいの輪を作り、古くなった蚊帳を切って縫い付け、真中に豚肉の
スジをくくり付けて沈めておくだけです。四、五分して短い竹竿に吊した蚊帳を張った輪を、そっと上
げると必ずと言ってよいほど、二、三匹から多いと五、六匹、あの長い赤い輪の入った鋏足で豚のスジ
にしがみついていました。こうして、数箇所の置いたエビ網を交互に揚げていくと、二時間ぐらいで結
構夕飯の天婦羅の材料ぐらいはとれました。

しかし、エビ網をつくってくれた母も、一緒に掻い掘りや、シジミ採りをした武藤さんの正ちゃんも、
この世にはいない。五年前台中に行って時には、もうアメ屋の水車小屋もなく、周囲の景観が一変して
しまって、澱んだ水面のところどころでオイカワの呼吸する小さな円い波紋だけが、わずかに昔を偲ば
せるだけでした。

それでも、目をつぶると、鮮明に故郷の川が見えてきて、そこには透き通った川底をはっているエビや、
オイカワや魚がゆっくり動き、正ちゃんの明るい声がはずみ、母がやさしくほおえみかけてくれるのです。

台中で生まれ、台中で育った私には故郷は台中しかありません。人それぞれの心の中に忘れられない故郷
の山があり、川があり、街角があります。
誰も知らないあの農事試験場の裏の小さな流れも、私にとっては、生ある限り忘れ得ない、懐かしい懐かしい
故郷の川なのです。

●上記の文章を書かれたのは仙台市在住の島崎先生です。先生は湾生(1945年以前台湾で生まれ育った日本人
のこと)の一人で、今から8年前に知り合い、その後、先生がよく同窓会誌や台湾協会会報誌などに投稿して
いるのを知りました。ぼくは戦前日本教育を受けた人たちや湾生からの思い出などを書いたものを後世に残し
ておきたく、先生から直接頂いた原稿とか、学校の同窓会誌などを知人に頼んで分けてもらったりしていました。
そして先生の原稿を収録したものに『ある湾生の回顧録』と言うタイトルをつけて年末に一冊の冊子にまとめ
サンプルとして送ってみたのです。
すると、先生は大層喜ばれ「ぼくもこのように一冊にまとめたかったんだよ。」との事。電話でいろいろ話し
た後、最後に「じゃあ近日中に、もうちょっと手を加えて奇麗に製本して20冊送ります。」と言うことになり、
正月は本作りに精を出しました。と言うのは、齢90を超え心臓病を患っている先生に一刻でも早く届けようと
思ったからです。文章を加筆したり一部修正したりして一週間後の今月7日発刊させ、その日のうちに郵送。
今回の回顧録の冊子はきっと先生のよい宝物になったことでしょう。そして10日後には、今度は先生からの
予期せぬお礼の贈り物が届いたのです。

回顧録は先生と台湾を結ぶ証(あかし)であり日本人と台湾人の切っても切れない絆を示すものでもあり
ます。もし、この冊子に対し興味のある方は、下記HPにアクセスして画面中央にある「ある湾生の回顧録」
のPDFファイルを開けばご自由にご覧いただけます。
http://www.geocities.jp/taichukai_net/profile.html


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