【故郷を離れた日本人】「望郷」

【故郷を離れた日本人】「望郷」              

仙台市 島崎義行

「望郷」この言葉ぐらい私の胸がジーンと切なく熱くなるものはない。映画、望郷のラストシーン、低い咽ぶような汽笛が響いてくる。刻々と遠ざかる豪華客船上のギヤビーを、うつろな眼で見つめながら、ジャンジャバンが演ずるぺぺは鉄格子の門に凭れながら、手錠のまま僅かに自由の指先でポケットに隠し持っていた折りたたみナイフを取り出し胸に突き刺した。薄れゆく意識うつろな眼、パリに対する望郷の念に耐えられず、死への道を辿るしかなかった男の最期を描いたフランス映画の傑作である。

一日、一日、人生の終着駅へ近づきつつあることは、否定しようの無い事実だが私は余り意識しないようにしている。唯、最近無性に自分の生まれ育った台湾に帰りたいと思う事が多くなった。「回帰本能」鮭は自分が生れた川の水の匂いを覚えていて、三年たつと必ず海から遡上する性質がある。此の回帰本能を利用して鮭の放流が行われ、漁獲高が飛躍的に増大した。私は、人間にも回帰本能のようのものがあるように思えてならない。私は特別回帰本能が強いのかも知れないが、年々望郷の思いが募る一方である。

澄み切った青空、真っ白な入道雲、頬をやさしく撫でて呉れるそよ風、何百何千と乱舞する胡蝶、夢幻の世界に誇ってくれた蛍、……。埔里は、今の私の住んでいる仙台では、到底信じられない自然がいっぱいの土地だった。桃源郷とは正に埔里の水源地のような所だと思う。初夏のごろになると裏山から筍が採れ、毎日食卓を楽しくして呉れた。夜になると蛍が開け放した部屋の中に飛んできて、蚊帳に何匹もとまり、子守歌代わりに眠らせて呉れた。

秋になると、異性を求める鹿の物悲しい鳴き声が山里を一層淋しくした。東側には水社大山に源を発する清流があった。埔里盆地を出ると鳥渓に合流していた。水源地はこの川から取水していた。ハヤ、エビ、ウナギと魚も多く、川辺に造った洗い場の板囲いの中に、母と洗濯や食器洗いに行くと、必ずと言ってよいほどエビとハヤが入っていた。エビは簡単に捕えることがてきたので、よく天婦羅にして食べた。川エビの天婦羅の味は、台湾の田舎に住んだことにある人なら忘れられない味の一つである。

或る日、埔里から大島君が友達を連れて水源地にやってきた。私は大島君について川の上流へ一緒に歩いたら、突然川の中から賑やかな人声が聞こえて来た。恐る恐る近付いて見たら、二十名はいただろうか、生蕃が素裸になって水浴をしていた。恐しくなった私達は口もきけず飛んで逃げ帰った。小学校一年生の時の夏の日のことだった。

「蛇の家」埔里には自然がいっぱいあったが、其の代表の一つが蛇であった。私が埔里小学校に通学していた時、何時も高羽剥製店の前を通っていた。高羽さんに店には錦蛇の皮で作った財布や、雨傘蛇の皮のステッキが有った。時々、生蕃が大蛇を竹に吊して売りにきていた。今は絶滅に近い穿山甲もよく売りに来ていた。或る年、水源地の川向いの台湾人の民家に何と言う種類の蛇がわからないが、黒褐色の全長一メートル位の蛇が異常繁殖して、屋根裏天井にびっしり絡み付いて、ポタポタと土間に落ちてくるので、住人は外の籾干し場にテントを張って避難していた。其れが大評判になって連日埔里の街から、見物人が次から次へと水源地の前の浅瀬を渡って行った。埔里小から台中師範に進学した三年先輩の本田正ニさんも、蛇の家を見に行ったことを書いておられる。埔里からの引揚者の中には、覚えておられる方が他にもあると思う。

ぺぺの郷愁の地は花の都パリだった。私の郷愁の地は台湾山脈の中の埔里だ。内地の人に埔里と言っても誰も知らない。知らないのが当たり前で知っているのはごく一部の蝶の研究者である。昔は有名な蝶の採集地として知られていたが、現在は乱獲が祟って昔の面影はない。

今年も、台北の免税店で台湾語で私は85年前に埔里で生れた埔里人(ポーリーラン)ですと、言ったら店長らしい年配の男が、私も埔里人ですと、言って商品の山水画を只でプレゼントして呉れた。27歳で引揚げ半世紀が過ぎたが、未だに仙台は他国であり仙台人の妻には済まないと思うが、仙台の土にはなりたくない。私の唯一の故郷埔里の水源地の川に、骨の一部を流してもらうよう台湾の生徒に依頼してある。母と過ごした望郷の埔里、今日も南の空を見つめ追憶に耽っている。


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