【日本人が知らない日本】台湾人にはおなじみ「山本頭」って?

【日本人が知らない日本】台湾人にはおなじみ「山本頭」って?

2012.5.13 産経新聞より転載

           吉村剛史

 台湾には、日本人にとって懐かしい景色が多い。

 週末、ぶらりと路地裏を歩けば、少し昔の日本にタイムスリップしたかのような伝統的な理髪店が目に飛び込んできた。

 台湾らしく、マッサージコーナーも併設されており、やや年配の常連さんたちが楽しげにくつろぐ姿は和やかだ。

 そんな店先の看板には日本人の姓に由来する「山本頭」という髪形が大書されていることが多い。足早に通り過ぎる日本人観光客の何人が気付くだろう。

 「山本頭」とは、台湾では、職人さんなどに見られる清潔感たっぷりの丸刈り頭のことだ。しかし、髪形の名称に採用されてしまった山本さんとは、いったい何者なのか。

 実は、第二次世界大戦で連合艦隊の司令長官を務めた元帥・海軍大将、山本五十六(1884〜1943)だとされている。日本では小説や映画でしか見かけなくなった歴史上の人物。

 理髪店の平和な光景の中で「山本頭にしてちょうだい」というには、やや違和感がありそうだが、台湾と大日本帝国海軍との縁は浅くない。

 日清戦争の結果、下関条約(1895年)で清国から日本に割譲された台湾で、初代から7代まで総督のイスに座ったのは陸海軍の大将、中将だった。統治が軌道に乗るまで大小の反乱への警戒があったためだ。

 その後、文官統治の時代を迎えるが、二・二六事件後の軍靴の響きとともに、日本統治時代の末期は再び武官統治に戻る。

 もちろん武官総督は陸海軍双方から輩出しているが、初代総督が海軍大将、樺山資紀だったことや、南方進出がカギとなった第二次大戦前夜から立て続けに海軍大将が総督となったことで、海軍の印象を強くしているのかも知れない。

 旧制台北第二中学に入学した直後、終戦を迎えた台北の故宮博物院の名ガイド、潘扶雄さん(79)にとって「海軍さん」は身近な存在だ。少年時代、台北郊外の淡水河を拠点にする海軍の水上機の発着を飽かずに眺めた記憶は鮮明に残っている。

 「近くの基地の海軍さんには、新品の靴下いっぱいにつめたザラメ(砂糖)を『坊や、持っていけ』といわれて、もらったこともあります」

 ただ、潘さんによると、日本統治時代に「山本頭」という髪形の名称は聞かなかったという。

 「てっきり、日本の俳優や歌手の名前かと思っていました」

 台湾在住で、台湾史に詳しい文筆家の片倉佳史さんは約10年前、映像メディア発行の雑誌が3冊セット56台湾元(約150円)で販売された際、「3本56」と表現されているのをみた。

 発音の近い「山本五十六」にかけた表現であることは明白で、こうした風潮などから、真珠湾奇襲作戦発案の提督の姓は、どうやら戦後の台湾の人々の「海軍さんの記憶」の中で一人歩きをはじめたようだ。

 ちなみに角刈りは「日本平頭」。また古典的な七三分けは南部では日本語そのままで「ハイカラ」と呼ぶとか。

 先日の東京都の尖閣諸島購入計画に対し、台湾当局では日本との良好な関係に配慮しつつも、「中華民国」の立場から、これに遺憾の意を表した。ただし、従来この問題で、「大陸(中国)と連携することはない」と公表してきた姿勢に変化はない。

 複雑な歴史、背景を持つ台湾の政治、外交上の主張は、中国の反発とはまた違ったニュアンスを秘めることを象徴しているが、住民の多数が、戦後も日本の歴史をひきずってきた社会であるだけに、単純明快にはいかないのも当然だろう。

 かつて世界3大海軍に数えられた帝国海軍は、明治の建軍からわずか70年余りで滅亡した。しかし、台湾という異郷では、平和な日常の中で今も白波をけ立てている。(台北 吉村剛史)


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