メルマガ「遥かなり台湾」より転載
台湾は先月末から今日まで3連休でした。連休初日(28日に、前日封切られたばかりの映画
「KANO」を見てきました。午後1時半から始まった映画を見終えて外に出たら時計は5時近く
になっていました。170元(日本円約500円)の優待券で3時間も見られて大いに得した気分で、
頭の中には最後の「天下嘉農」のシーンが焼き付いていました。
とてもいい映画なので多くの人たちに見てもらいたいと思います。
下記サイトに映画紹介記事があります。ぜひご覧になってください。
http://www.taipeinavi.com/special/5048839
KANOこと嘉義農林学校は大正7年(1919)に台湾総督府が台湾農業の発展に必要な人材育成を
目的に設立した学校で、現在は国立嘉義大学になっています。広大な敷地内には蘭の栽培施設があ
り、品種改良から輸出用の株の栽培まで、台湾ならではの事業を数多く行っているそうです。大学
の本館には、嘉義農林学校の「新高山の西、……」で始まる校歌の額が飾られています。
嘉義農林学校校歌(作詞:高野達之 作曲:岡野貞一 )
1 新高山の西 沃野(よくや)千里
要路四通の 直中(ただなか)占めて
嘉義よ歴史に 輝くところ
嘉農が瑞穂(みずほ)の 旗立て立つ地
2 八掌溪の北 天恵充(あ)てり
小田に黄金(こがね)は 再び稔り
野にも山にも 幸堆(うず)高し
これ吾が嘉農を 迎えて待つ地
3 浮べる雲の富 かえり見ずて
汗に生きるが 我等の願い
一木植うるも 一粒蒔くも
誠の吹息を こむるが誓い
4 見よ 五年の業 学び終えて
胸に燃えたつ 理想をひそめ
鋤(すき)と鎌(かま)とを 宝庫の鍵と
微笑み 地に立つ 我等の姿
この嘉義農林学校は、1931年(昭和6年)第17回全国中等学校優勝野球大会に出場。初出場で決勝
戦進出、中京商に惜しくも敗れたが、堂々の準優勝を勝ち取ったのです。
当時の新聞はこう伝えています。
〈去る8月21日、第17回全国中等学校野球選手選手権大会決勝戦が、愛知代表中京商業と台湾
代表嘉義農林との間で行われ、中京商が4-0で快勝した。
敗れたりといえども、この間の嘉義の戦いぶりには目を見張るものがあり我々を大いに楽しませた。
嘉義はなんと創部3年目。強豪松山商を育て上げた近藤兵太郎氏が心機一転、台湾に渡って育て上
げたチームである。内地人(日本人)、本島人(台湾人)、高砂の3民族混成チームだが、共通点
は快足。準決勝までの3試合 で記録した盗塁は実に16個。準々決勝の対札幌商では8個と、大
会に「脚の旋風」を巻き起こした。だが、決勝では中京吉田ー野口のバッテリーが巧みな牽制 と
強肩で嘉義の脚を完全に封じ込めて盗塁はゼロ。これでは勝ち目がない。しかし、近藤監督の下、
3族結束して優勝を目指す姿は我々に大いなる感動を与えた。
文豪菊池寛氏は次のように述べている。
「僕はすっかり嘉義びいきになった。異なる人種が同じ目的のために努力する姿はなんとなく涙ぐ
ましい感じを起こさせる」
参考資料:岡本博志著
「人間機関車・呉昌征」より
1931年8月21日、全国中等学校(今日の高校)野球選手権大会の決勝戦。7年前の1924年に完成した
甲子園球場では、5万人の観客が声援を送り、場内には熱気があふれていた。
この夏の甲子園第17回大会の決勝に進出したのは、中京商業と嘉義農林だった。中京商業は1923年の
創立、対する嘉義農林は正式名を台南州立嘉義農林学校 と言い、台湾の農林業を振興するためにエリ
ート人材を養成する目的で1919年に創立された。新参の両校が対戦する決勝戦はそれだけで話題充分
であった が、その一つが台湾代表であることがさらに全国野球ファンの関心を呼んだのである。
回が進むに従い、戦前の予想通りに中京商業が有利に試 合を進めていた。三回裏、中京が連打とタイ
ムリーヒットで2点を先取した。続く四回にも2点を加えた。その後は両校投手の力投が続き、投手
戦の膠着状態の まま回が進んだ。中京は本大会から球史に残る3連覇を成し遂げた吉田正男投手が
4安打に抑える好投、対する嘉義農林の四番打者で主将の呉明捷投手も力投していた。嘉義農林の敗
色が濃くなってくると、白いユニフォームの胸に書かれた「KANO」の文字を読んだ観客が「カノ
ウ」、「カノウ」と大合唱の声援を送り始めた。
試合はそのまま4対0で終了した。翌日、全国紙が嘉農の健闘を大きく報道し、一紙は「天下嘉農」
(嘉農ナンバーワンの意)と讃えた。
試合後、新聞記者が嘉農の近藤兵太郎監督にインタビューをした。近藤監督は松山商業野球部出身、
その後台湾に渡って嘉農の教練(軍隊式の体育教師)になり、長く部員から慕われた監督だった。
「それにしても選手たちのスタミナはすごかったですね。甲子園まで4日の長旅と、この暑さによく
耐えましたね」
「そりゃ、大したことじゃありません。何しろ部員は午後2時間の農業実習で汗をかいてから、日が
暮れるまで練習しているのですから、むしろ回毎に休憩がある試 合の方が楽だったでしょう。暑さ
なんて問題じゃない。北回帰線の南にある熱帯の嘉義はもっと暑いですから。選手の中には甲子園は
涼しいなんて冗談半分に 言っていたのがいましたよ。ワッハッハハ」と監督が答えた。
監督は急に真剣な表情になって記者に話を続けた。
「嘉農の野球部は台北のチー ムとは違う。台北のチームは全員が台湾在住の政府関係者や会社員の
日本人の子弟であるのに対し、嘉農は日本人、台湾人、原住民の三者が渾然一体になった チームで、
単に南部が台北より強くなったというだけではないのですよ。私はチームに三者一体の嘉農精神を教
えています。親が誰かなんて関係ありません」
嘉義は北回帰線が通る位置にあり、その南は熱帯になるのだ。嘉義では梅雨空けの5月からは毎日暑
い日が続く。嘉農チームはスタッフを入れて総勢18人が、嘉義駅を出発したのは8月9日の朝9時32分
だった。駅前広場に集まったおよそ千人の市民に見送られる中、蒸気機関車が祝砲のように三度汽笛を
鳴らしてゆっくりと動き出した。急行列車で基隆まで約300キロ、8時間かかり、一行が港町基隆に着
いた時には陽暮れになっていた。当時日本に渡る台湾航路の基点として栄えていた基隆、選手たちは初
めて見る港町の賑わいに驚かされた。
翌朝、誰もが生まれて初めて乗る大型定期船の大和丸が岸壁を離れるに従い、故郷の陸地が遠ざかるこ
とに不安と感傷を覚えたが、間もなくどっと疲れが出て、三等室のベッドの上で眠りにおちた。神戸ま
で1500キロの長旅には 2昼夜と半日58時間かかり、船が最初の寄港地門司港に着いたのは13日の午後
だった。
大和丸は港にしばらく停泊した後、門司からの乗船 客を加えて夜中の瀬戸内海を神戸に向かった。
翌朝、船が神戸に近づくと、六甲山の麓から海に沿って広がる美しい景色に、部員たちは目を見張った。
こうして 8月14日、宿舎となる高校(旧制)の寮に入った。15日から二日間の練習をした。初戦は17日、
神奈川商工を3:0で勝つと、札幌商業、小倉工業を退けて快進撃し、決勝に進出した。出場前には無名
であった嘉農は一躍全国に知られるようになっていた。
嘉農チームが嘉義に帰ると、地元はその凱旋を熱狂して迎えた。それまで8回の台湾大会では台北一中、
台北商業など台北代表が甲子園に出場してきたので、南部から初めて嘉農が台湾代表になった時に地元は
興奮に包まれた。加えて初陣で甲子園の決勝戦まで進出した嘉農チームを、はるか日本から嘉義駅に降り
立った郷土の英雄たちを、大群衆が歓迎した。
「天下嘉農」、「天下嘉農」と大合唱があたりに響き渡った。嘉義市民にとって嘉農チームは甲子園では
二番であったが、彼らの心の中では一番だった。
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