「台湾の声」【台湾便り】台灣最初の空の遭難者
花中11回生 王 文 局
子供の頃から、母は、僕の生れた昭和9年,台北に住んでいた金持ちの叔父が,不幸にも台灣で初めての民間飛行機に乘って墜落死したと言ったことを印象深く覺えている。
2004年5月、米国在住の花中11回同級生張令學君から,文藝春秋社發行の2004年版べス卜・エッセイ集に,彼が書いた「チラシ」が入選したとの知らせがあった。
その時彼が言うには,これまで台湾人で入選した方は作家陳舜臣氏を除けば,1995年版に李遠川教授(ノ一べル獎受獎者李遠哲博士のお兄さん、)2000年版に曾望生醫師の「牽手」で、彼は第三人目になる。彼と李教授は同じく米国にいて文通をしていたが,高雄にいる曾醫師とは知り合っていない。 お互いに何かと連絡したいから搜してもらえないかと頼まれた。(後程、1996年版に亜細亜大学の張美玉教授も「漢語の狹間」で入選したことがわかった。)
旅行好きで国際切手マニアでもある曾醫師が,錫安旅行社発行の錫安旅訊月刊紙に彼の書いた切手に關するス卜一リの記事を載せたことを知って, 電話で月刊社の女編集者に曾醫師の住所と電話を問い合せた。彼女は何故知りたいのか,その原因を逆に尋ねた上で,僕に知らせてよいのか,ご本人の承認を得てから返事を頂いた。
張令學君に知らせる前に,台北から曾醫師に電話した。その時、曾醫師から君達が花蓮港の出身者であるなら,全国で初めての民選県長(当然民選県長として台灣第一人者でもある)〔注:以下文中「第一人者」とは「最初の人」を意味する〕、前花蓮県長楊仲鯨氏を知っているはず,彼は曾醫師のお母さんの兄弟「小父さん」であると言われた。
また、その弟の「小父さん」楊清溪氏は日治時代,台灣で初めて民間飛行機に乘って墜落事故で死亡した,台灣空難の第一人者であるとも言った。
僕等が知っている前花蓮県長楊仲鯨はチョビ髭を生やし、洗練された紳士で,台灣早期のアメリカ留學卒業生であった。
戰後まもなく,蒋介石国民黨政府は大陸の憲法を台灣に持ち込み,地方自治を初めて台灣で實施した。そこで、まづ花蓮県を示範県に指定し県長の県民選舉を行なったが,皮肉にも無黨派で立候補した楊仲鯨氏が国民黨の候補者を壓勝して,初任民選県長に當選した。この事は国民黨一黨独専政治の時代,非常に意外だったそうだが,政府がまだ米国の援助を受けていた當時では,アメリカ留學歸りの楊氏が県長に當選したことは,對米外交上プラスであるとも言えた。
僕は張令學君に曾醫師の連絡先を知らせた。
曾醫師からは僕に彼の入選作「牽手」を收納した2000年版べス卜・エッセイ集『日本語のこころ』の一冊をサイン入りで頂戴した。
だが、曾醫師は僕が母から聞かされ空難死した叔父王徳福の名前については知らないという。
楊清溪と王徳福は、果して誰が台灣で空難した第一人者なのか?日本統治下の台灣にあって,台灣人でよくも当時まだ珍しい飛行機に乗れたのは何故か?その飛行機はどこから入手したのか?疑問は次から次へと湧いてくる。
日治時代のことなので,その謎を解くために台北市慶城街にある日本交流協会の圖書室へ,何かの記録があるのではないかと調べに行ったが徒勞だった。
でも、近所の行天宮圖書館へ行ったら莊永明著作『台灣第一(1)』の本を見つけて,早速借りて讀んだ。その漢文で書かれた本の内容は、全部台灣第一人者に關する物語である。
「第一位空難者—–楊清溪」の章に,1934年(昭和9年)11月3日8時過ぎ,飛行士楊清溪は民間飛行機「高雄号」を操縦し,乗客王徳福を乗せ台北の西南部、東園町五十四番地の畑に墜落したとあった。不幸にしてお二人とも遭難した。飛行士楊清溪は即死,乗客王徳福は救出後病院へ運ぶ途中、約10分後に死んだ。
この記事ですべての疑問が冰解した。
その飛行機は楊清溪が寄附金を集めて買った、台灣初めての民間機であったのだ。曾醫師の「小父さん」楊清溪氏は日本立川飛行學校を卒業し,飛行士のライセンスがあるパイロッ卜であった。
莊永明氏の本には僕の叔父王徳福のことについて詳しく書いていないが,叔父は楊氏の台北後援会に寄附金を出していて,寄贈者には順番で飛行機に乗せて貰えた。11月3日の順番としては,台北後援会の会長陳清波氏が先に搭乗するべきだったのが,出發間際までに本人が用事で來なかったので,叔父王徳福が先に乗って墜落死したと,後になって家族の方が僕に語った。
その後、高雄に住んでいる家内の妹に,曾醫師を搜すことで苦勞したと言ったら,早く彼女に聞けばすぐわかったのにと。何故ならば曾醫師は高雄で有名な小兒科の開業醫,彼女の小供達は皆ずっと曾醫師に診せて貰って成長したとのことだった。
曾醫師は大陸から侵入したSARSに台灣が襲われた年,病院を閉鎖し隱退したと語った。
三年前に僕が高雄へ引越て來た時,最先に曾醫師を表敬訪問した。
台灣空難第一人者同士、飛行士=曾醫師の「小父さん」と,乗客=僕の叔父が,事故発生後七十余年の歳月を隔て,曾醫師と僕が高雄にてまた出会うとは。
二人は不思議なご縁について語り合った。まさに二人の間で時空を越えた見えない糸の絆で結ばれているようなことを!
2009/3/26 台灣、高雄にて
【附記】
第一位空難者—–楊清溪
莊永明 著『台灣第一(1)』より拔粹
楊清溪(1908-1934)空難の台灣第一人者。
楊清溪氏は1908年5月3日、高雄州岡山郡の右冲にて三人兄弟の末子として生れた。(次兄が楊仲鯨氏)舊城公學校卒業後,台南長老教中學に入學,各種の運動に精通す。また常に高雄の半屏山周辺の荒野にて兔或は栗鼠狩りをし,手ぶらで歸ることはなかったという。22才に中学校四年生で内地へ渡り,岡山、金川中学校,東京、名教中学校に籍を置く。その後、明治大学専門部商科に進学したが,飛行士を志願し,立川飛行学校へ転学した。
では何故飛行士を志願したか?彼自身の手記によると、幼年よりスポ一ツを好む彼は,明治大學のサッカ一部にて毎日猛練習をやっていた。だが飛行機を操縦するのもスポ一ツで,自由自在に空を翔け廻れる素晴らしさに強烈な衝動があったという。1930年東京多摩郡にある立川飛行學校の入学試驗に優秀な成績でパスした。
四年間の専門訓練後,彼は二等飛行士の資格を得る。當時二等飛行士なら一般には一種のライセンスしかないが,彼は薩爾牟遜A型、[央/皿]里奥型及び亞武羅504K型,三機種の飛行ライセンスを持っていた。
1933年(昭和8年)、高雄へ墓参りで帰郷した楊氏は兄達の援助を仰ぎ,約二千円の資金を集め,日本で230馬力の薩爾牟遜型偵察機を購入した。當時日本全国の民間飛行機は六機しかなかった。この台灣初のプライべ一卜飛行機を「高雄号」と名付けた。楊氏は台灣で第五人目の飛行士であった。彼には台灣の名人楊肇嘉氏等の後援があり,1934年旅日音樂家(江文也、翁榮茂、林進生、高慈美、林澄沐、柯明珠—–等)の台灣郷土訪問演奏會に續いて「郷土訪問飛行」を行った。彼は台灣中南部訪問飛行の後,環島飛行を企画したが,天候不良の為企画変更し,台北上空の短途飛行にて墜落した。
台灣軍司令部は11月1日に楊氏の環島飛行航程計画を許可した。3日朝早く彼は整装し,出発の準備を完了した。その日は密雲低く垂れていたにも拘わらず,環島飛行の計画を實行するつもりで,午前六時五十五分に一度飛び上ったが,新店上空で山脈が黒雲に被れ,視界が見えなく仕方なしに折り返した。その後王徳福を乗せ,八時十九分に台北上空を二度程旋回した。新店溪堤防の上空で急に右へ旋回した時,機体が150Mの高さから大きな音をたてて,練兵場より1K半離れた大根畑へ突込んで墜落した。
事件當日は週末だったので,台灣各新聞と大阪朝日新聞社台北通信局は争って號外を出した。翌日更に詳しく各新聞の刊頭記事として報導された。
遞信大臣は楊氏に「一等飛行士」を追贈した。
2017.1.14 20:00