【傳田晴久の台湾通信】「南榕広場」

【傳田晴久の台湾通信】「南榕広場」

1. はじめに

台南で私が中国語を勉強した国立成功大学(華語中心)のキャンパスには、昭和天皇が皇太子時代にお手植えされたガジュマル(榕樹)の木が大きく成長し、見事な大木になっています。そして十数本のガジュマルが取り囲む公園が出来て居り、「榕園」と名付けられています。近所の幼稚園の子供達から大学生まで、更に近隣の人々が憩いの場として楽しんでいます。

今回の台湾通信はこの「榕」にかかわる最近の出来事をお伝えいたします。

2. 事件

国立成功大学では数年前からキャンパス内の校舎の建て替え、塀や駐輪場などの整備、改築を進めていますが、その一環として、ある道路(大学路)の壁を撤去し、空いた空間に広場を造成する工事が一段落した昨年(2013年)の11月に、整備された広場に名前を付ける計画が持ち上がった。学校側は学生や職員で構成する団体に計画を委託し、広場の名称をネットなどを利用しての公募(11月25日〜30日)を行った。

その結果、3800名を超す教師、学生、職員からの応募があり、971票を取った「南榕広場」が第1位となった(第2位は715票の「成風広場」)。しかし、学校側は命名活動を委託はしたが、それは実際効力を有するものではないとして、「南榕広場」の名称を否決した。この結果を受けて学生側は反発し、ネットやフェースブックを利用した抗議活動が開始されました。

12月下旬(25日)、民進党立法委員(葉宜津)が成大の校長(黄煌輝)に質問し、回答を求めた結果、校長はこの件について「校務会議」で審議すると回答した。学生側は代表をその会議に参加させることを前提に同意した。

今年(2014年)1月6日に校長は全校教職員学生にメール、ネットによる手紙を配布した。要点は2つあり、第一は学校内の命名は明文化された規定があるので、命名は行政原則に基づいてなされねばならないこと、第二は、学校は行政原則を遵守する以外にも、政治的宗教的中立の原則も守らねばならず、学内の関連施設は学園の安定を守るために、政治的な活動や特定政治意識形態にかかわることを避けねばならないこと。

1月8日、フェースブック上に、大学の正門にあるネームプレート上の「光復」の2文字を削り取るという記述が現れた。校長の政治的中立の見方がダブルスタンダードだとの抗議のようです。「光復」は(亡びた国を)建て直す;(失地を)回復するという意味で、政治的意味を持つ言葉と言うことです。この日、大学の教授代表や各室の主管などが多元広場、成大広場、さらに丁肇中広場、呉京広場などの名称についても十分討議した後で、今回の命名活動で最高票を得た「南榕」のみを1月15日の校務会議の討議に提出すると発表した。

なお、丁肇中と言う方は国立成功大学の前身である台湾省立工学院機械工学科卒業生でノーベル物理学賞受賞者(米国籍)だそうで、また呉京と言う方は曾て国立成功大学の学長を務め、後に教育部長(文部大臣)に就任した国民党籍を有する方だそうです。

そして1月15日国立成功大学の最高議決機関である校務会議が、学生代表も参加して開催され、南榕広場の名称採否が検討された。色々な意見が出されたが、最後に「広場命名を取り消す」修正案が提案され、採決の結果、100票中70票が同意、21票が反対で命名取消案が採決されました。この日の夜中に、一人の交友が校務会議の決議を不満として、正門のネームプレートから「KUANG-FU」(光復)の文字を削り取りました。

1月19日、今度は大学の講堂「中正堂」の「正」という文字が厚紙で覆われ、その上に「立」という文字が被せられた。中正堂が中立堂になったわけです。中正は蒋介石の字(あざな)です。

以上が大学の「広場命名」にかかわる騒動です。

3. 「南榕広場」命名の理由

この「南榕広場」を提案した同大学法律学部の学生邱鈺萍さんは「榕樹(ようじゅ)は国立成功大学のシンボルであり、南方の大榕樹を以って命名したかった。さらにこの名称は当校の同窓生であり、台湾政治の反体制派である鄭南榕氏を記念するものです
と述べている。

「榕園」(BANYAN GARDEN)と名付けられた公園では遠くに左右対称のこんもりとした巨大な樹が見えますが、これが「榕樹」(ガジュマル)で、昭和天皇が皇太子時代にお手植えになったものです。ガジュマルの樹はこの公園の周辺をはじめ、学内の至る所に見ることが出来、成功大学を象徴する樹にふさわしいと言えます。

4. 鄭南榕とは

明治から大正にかけて活躍した自由民権運動の主導者、政治家の板垣退助は、遊説の帰途暴漢に襲われ、負傷した(岐阜事件)が、その際「板垣死すとも自由は死せず」という有名な言葉を発したとされています。今回台南で発生し、論議を呼んでいる(最近のことばで言えば「炎上」している)話題の主は、「国民党が我が屍(しかばね)を捕らえることが出来ようとも、我を捕らえることは出来ない」(蔡焜霖氏訳)と語って、焼身自殺された「鄭南榕」という台湾の言論自由の闘士、民主の闘士、台湾独立の闘士と言われている方です。

彼は1947年に生まれたが、この年はあの228事件(中国大陸から来た軍隊が地元住民を弾圧・虐殺した事件)が発生した年です。

1967年国立成功大学で工程科学を学ぶも1年で中退、その後輔仁大学哲学系を経て、台湾大学哲学系に学んだ。しかし、必修科目「国父(孫文)思想」の授業を拒んだため、卒業証書はもらえなかった。

1981年頃から言論活動を始め、1984年には自ら「時代週刊」を創刊、その後警備総司令部の取り締まりと没収、新聞局の発禁処分に対抗した。「100%の言論の自由」を獲得するために始めた「時代週刊」は、同年末に発生した「江南事件」の後、「蒋経国伝」(江南著)を全文掲載し、蒋経国の病状の真相、軍の黒幕や悪弊を暴露した。

1987年4月16日、鄭南榕は公開演説で台湾独立を主張したが、これは戒厳令下であり、大変なことであった。民進党が正式に成立したのが同年9月28日であるから、鄭南榕はそれより早く台湾独立を主張したことになります。

1988年12月、雑誌「自由時代週刊」に許世楷博士の「台湾共和国憲法草案」全文を掲載したために、翌年1月21日、高等検察処から「反乱罪嫌疑」の令状を渡された。鄭南榕氏は同月27日、「国民党が我が屍(しかばね)を捕らえることが出来ようとも、我を捕らえることは出来ない」と宣言し、自ら編集長室に閉じこもった。机の下にガソリンを3樽置き、その上にテープで緑色のライターを張り付けた。そして71日が経過した4月7日早朝、国民党はついに多数の軍勢で雑誌社に突入した。その途端、鄭南榕氏は猛火に包まれた。
現在、台北市の松山空港の近く、民権東路106巷三弄に「鄭南榕紀念館」がつくられ、その道路は「自由巷」と名付けられている。

5. 何故大学は拒否したのか

昨年(2013年)1月、国立成功大学はキャンパス内の蒋介石銅像を撤去しましたので、私は「成大は中正像を撤去せりみどりの風吹く兆しとぞ見ゆる」と詠みました。その大学が何故「南榕広場」の命名を拒否したのでしょうか。

報道によりますと、「政治的色彩を帯びた名称」、「鄭南榕は台湾独立を主張していた」、「大学は中国との統一、独立などの政争に巻き込まれるな」などが理由との事ですが、中には物凄い理由もありました。歴史系の王文霞教授は「鄭南榕は自らの命を粗末にし、焼身自殺は一種の暴力であり、イスラムの自爆テロと同じである」と述べたとか。この教授は批判を受けて、直ちに謝罪、釈明しました。

しかし、鄭南榕の遺族はこの発言は誠に遺憾であり、一度鄭南榕紀念館に来て、真実の姿を見てほしいと述べています。

6. 支持者たちは

大学の命名拒否に反対する人々は、「学生たちが民主的なプロセスを経て選んだ名称である」、「鄭南榕の主張『言論の自由100%』を実現するために」、「今回の問題は政治的対立ではなく、世代間の対立の問題である」と主張しています。

大学側が「南榕広場」命名を拒否した票決を受けて、台南市議会議員の有志たちは記者会見を開き、大学の反民主の姿勢を批判し、鄭南榕の台湾民主への貢献を認め、問題の広場がある「大学路」を「南榕路」と改名しようと提案しました。

前駐日代表の許世楷氏は自由時報の投書欄「自由広場」に次のように投稿された。「(前略)・・・・鄭南榕さんは言論の自由のために犠牲になられたと言うだけでは全く不十分で、中国国民党による中華民国戒厳令下に敢えて台湾独立建国聯盟主席の台湾共和国憲法草案を掲載したということは、社会に対して重大な衝撃を与えたのであり、鄭南榕さんは非常に深刻な使命感と決意をお持ちだったとみることが出来る。このことをすべて若い人々に伝えねばならない。ある人が南台湾の大榕樹を取り上げ、「南榕広場」と呼ぶのに何か良くないことがあるのか。私はその広場は鄭南榕広場と命名されるべきであると主張する・・・・(後略)」

7. おわりに

言論の自由を100パーセント守るために壮絶な焼身自殺を図った同窓生は、成功大学の後輩たちにとって誇るべき先輩であり、新しく整備された広場にその名前を付したいと願う気持ちは、まったく純粋なものと思います。学校は何が困るのでしょうか。成功大学の前身である台湾省立工学院に在籍したことがあるノーベル賞受賞者も、かつての学長で大臣を務めた国民党籍を有する人も、それはそれで立派な方でしょうが、学校のシンボルである「榕樹」の名を持ち、我々が普遍的価値と信じる「自由」のシンボルの方が新しく整備された広場の名前にふさわしいのではないでしょうか。