メルマガ「はるかなり台湾」より転載
今月16日に封切りになった「湾生回家」の映画を25日(日)見に行ってきました。湾生とは日本統治時代に台湾で
生まれ育った日本人のことで、回家とは家に帰ること、里帰りのことです。とてもいい映画で「ふるさと」の歌を綺
麗な声で歌っている最後のシーンはとても印象的で、上映が終了した時に観客席から何と拍手が鳴り響いたのには正
直びっくりさせられました。
監督の田中實加さんの著書(映画と同じ題名)には、冒頭に湾生の歴史的背景が書かれてあり、それから著者のおば
あちゃんの田中桜代さんを含め20人に及ぶ湾生の記録が書かれており、また花蓮特攻隊のことも書かれて多くの写真
と資料などがあり戦前のことを知りたいぼくにとって宝の本です。映画にはそんなにたくさんの人たちは登場してい
ませんが、その中の家倉多恵子さんとは面識があり、映画では彼女を含めて一人一人の物語が丁寧に描かれていました。
田中さんのFBを見ると、記録を始めて12年、撮影に3年かかった;幾多の困難にもめげず、前に進めない時にはいつも
自分にこう言い聞かせてきた:「たった一人でも信じている人がいる限りあきらめることはできない・・・たとえその一人
が自分自身であったとしても。」このような思いで作った映画だから、その思いが観客にも伝わって拍手となったので
しょう。
まだ元気でいる湾生の為にも日本でも上映されることを、また『湾生回家』の日本語版が出版されることを望んでいます。
まだご覧になってない方には是非お勧めします。
映画では東部台湾(花蓮)に住んでいた人たちの話を中心にまとめられていましたが、この映画を見ていて2年前に出した
『日台の架け橋』の中で紹介した「台湾東部の日本人移民村」の文章が映像化されたような気がしてきました。豊田村のこ
とが取り上げられて出演者は喜んで撮影に協力したことでしょう。ぼく自身はまだ豊田村に行ったことがなく、あの文章は
台湾光華雑誌に掲載されたものを転載したのですが、是非機会を作って豊田村を訪れてみようと思いました。
ぼくが台中に住み始めた翌年1989年(平成元年)はちょうど台中市百周年で、この時に湾生の人たちが百名ほど台湾に里帰
りにやって来たのです。正に「湾生回家」だったのです。このとき初めて湾生という言葉を知ったのです。そして、湾生の
集まりである台中会の存在を知ったのでした。戦前の中部台湾は台中市、旧台中県(現在は台中市に併合)、彰化県、南投
県は台中州と呼ばれていました。この台中州で生まれ育った湾生の人たちがそれぞれの学校単位の同窓会、職域団体の集合
体として台中会が昭和47年に誕生したのです。(それで、地元台中にもいつか日台交流グループ「台中会」を結成しようと
思っていたのです。それが今日の台日会なのです。)知人の紹介で一緒に祝賀会に参加し、この時湾生の人たちが「故郷」
の歌を合唱している光景は忘れることができません。それは「故郷台湾に帰って来たぞ。」と言う万感の思いが込められた
合唱だったのです。
2008年2月に湾生の人たちの書いたものを集めて『故郷台湾』と言う冊子本を作りました。その中である湾生のおばあさんは
次のように記していました。
私の故郷は台湾です。
「うさぎ追いし かの山 小ぶな釣りし かの川
夢はいまもめぐりて 忘れがたき故郷」
この歌を歌うと。いつも生まれ故郷の台中郊外を思い出します。男の子も女の子もなかよく一緒に遊んだことを。
山登りの競争をしました。きれいな水が滔々と流れる広い川岸にある大きな石にあがったり、深い水の中にもぐっ
たり泳いだりして楽しかった夏が思い出されます。
また、ある時、湾生の方から台湾に来る時に奥さんと喧嘩したという話を聞きました。「なぜケンカしたんですか?」と
聞いたら、妻に「お父さん、また台湾に行くの?」と言われたので「バカ! 俺は台湾に行くんじゃない、帰るんだ。
自分のふるさとに帰ることがわるいのか」と言って喧嘩して出て来たんだと本人は笑って答えていました。
湾生の人たちにとって台湾は幼少時代を過ごした土地で、一生忘れられない思い出の所、時代が変わろうとも国が変わろう
とも終生変わらぬ故郷なのです。
湾生の中でも特に親しかった島崎先生は「27歳で引き揚げ半世紀が過ぎたが、私の唯一の故郷である埔里の水源地に骨の
一部を流してもらうように台湾の教え子に依頼している。母と過ごした故郷埔里、今日も南の空を見つめ追憶に耽っている。」
と生前記しておりました。
昭和47年(1972)に結成された台中会は、最も多い時は会員数が八千名を超え、全国から年一回の総会に集まり、旧友と再会し、
昔の思い出話に花を咲かせ、ある年は約500名参加したこともあるとか。あれから二十幾星霜。せっかく知り合った湾生(台中
会会員)の人たちも何名かは帰らぬ人となってしまいました。会員の高齢化が進み、湾生たちの母校の同窓会も次々と解散し、
かつ昨年5月には台中会もなくなってしまいましたが、湾生の存在は歴史の事実としていつまでも消えることはないのです。
また湾生の人たちのことを風化させないためにも「記録」として残していこうと思っています。