脈解離により急逝された。突然の訃報に多くの人々が戸惑いつつ嘆き悲しんだ。
そのとき、李登輝元総統は大腸癌の手術を受けて入院中で、明日が退院という日にこの
訃報をテレビの速報で知ったという。胸を刺すような痛みを感じ、「『神よ、私に病の苦
痛を与えたばかりなのに、どうして志を同じくする友を失うという打撃を与えるのか』と
天を仰いで問いかけずにはいられなかった」という。
台湾の2・28事件記念日を期し、台湾独立建国聯盟は黄昭堂氏への各界からの追悼の言葉
を編纂、『黄昭堂追思文集』として前衛出版社から刊行した。
本書劈頭に、李登輝元総統の追悼文「黄昭堂永遠站在台湾国」が配されている。そこに、
先に紹介した当日の心境などを「黄昭堂永遠站在台湾国」と題してつづられている。台湾
独立建国聯盟日本本部が翻訳したので下記に紹介したい。
李元総統の痛みと打撃はいかばかりだったか、それを推し量る術はないが、黄昭堂氏の
思想と行動を共鳴するほど深く理解されていたことを知り、その悲しみの深さの尋常では
ないことを思うばかりだ。
その悲しみの淵から「すべての台湾人が昭堂先生のように喜びの精神をもって、台湾を
正常で独立した国家にするという彼の使命を引き継ぎ、彼が残したモデルを、この麗しい
島に永久に打ち立てることを期待する」と述べられている。李元総統の台湾を思う強靭な
精神を垣間見るとともに、黄昭堂氏への偽りのない賛辞とも言うべき赤誠の追悼と拝し
た。
黄昭堂は永遠に台湾国の側に立つ(黄昭堂永遠站在台湾国) 李 登輝(台湾元総統)
2011年11月17日の昼近く、テレビの画面に流れた速報が昭堂先生の急逝の知らせを伝え
た。しばらくの間、私は、この目の前に現れた事実をどうしても信じることができなかっ
た。そして突然、胸を刺すような痛みが覆った。「神よ、私に病の苦痛を与えたばかりな
のに、どうして志を同じくする友を失うという打撃を与えるのか」と天を仰いで問いかけ
ずにはいられなかった。
学者出身の黄昭堂先生は若い頃、日本へ留学し、東京大学の博士号を取得。引き続き日
本にいて、国際政治史および政治学を講じた。学者であるといっても、いつも気にかけて
いたのは、自ら一生の事業だという「台湾独立運動」だった。昭堂先生は、いつも、ユー
モアと自信を帯びた口ぶりで、「私は台独のプロだ」と言っていた。台湾を正常な独立国
家にすることが、生涯をかけた目標であることがよくわかる。日本で行った学術研究も、
その多くは台湾独立運動や台湾の国際社会における地位に関わるものだった。
彼が繰り返した、台湾の歴史は台湾人の立場から書いてこそ、本当の歴史を記録するこ
とができるという主張は、私の考えとも一致している。つまり、昭堂先生も私も、台湾史
の研究が台湾人史観の基盤のうえに築かれるべきだと考えている。これまで台湾で起こっ
たさまざまな出来事を、台湾人の立場に立って解釈すべきである。
昭堂先生が出版した3冊の著書(『台湾民主国の研究』、『台湾の法的地位』、『台湾総
督府』)から見れば、彼は確かに台湾の観点から台湾および台湾史を研究するという主張
の実践者でもあった。『台湾民主国の研究』は、昭堂先生にとって二つの特別な意味があ
る。一つには、これが博士論文であることに加え、この学位を取得した経緯もドラマチッ
クなのだ。
この論文の提出締め切りの直前に、彼は柳文卿事件で警視庁に拘留されていたため、こ
の論文は警視庁から提出された。このことを彼はいつも自慢していた。もう一つには、こ
の論文を提出すると、すぐに日本の学界で評価、重視され、東京大学出版会から刊行され
ることになった。東大出版会が初めて外国人の手になる博士論文を出版したのだ。もう一
つ彼が誇りにしていたのは、もともと東大が出そうとしていた学位記の国籍欄は「中華民
国」と書いてあったので、彼はすぐにそれを突き返し、「台湾」と書き換えなければ受け
取れないと要求した。東大では全学教授会でこれについて検討し、要求を認めた。それ以
降、東大では、台湾からの留学生に出す学位記の国籍欄は、本人の要望を尊重することに
なったという。
2冊目の台湾研究の著作、『台湾の法的地位』では、台湾が中国の領土に属さないこと、
台湾が基本的には台湾人の領土であること。少なくとも台湾の帰属が今でも未定であり、
台湾の将来を決定する際には、台湾人の意見を尊重すべきであることなどが指摘されてい
る。ほかに、この著作のユニークな点は、国際法によって台湾史を解釈したところであ
る。このようなアプローチはそれまでになかったものだ。
台湾研究の3冊目は『台湾総督府』である。この著作では、日本が台湾を統治した50年の
歴史を描いている。出版されると、出版社では、すぐに新書に加えた。これは簡単なこと
ではない。
「台湾人の立場で台湾史を書く人は少ない。大部分の人は漢民族主義の立場から台湾に
ついて書く。そして日本人あるいは中国人の立場から台湾史を書く人も少なくない。も
し、台湾史を研究する後進が、『台湾人史観』に立脚して研究をするならば、台湾のアイ
デンティティーを築くことがずっと容易になる」という言葉は、あたかも昭堂先生が皆に
残した指標のようである。すべての台湾人が引き続きその実現に努めることを期待する。
昭堂先生は、堅実な人格者であると言われている。人に寛容、言葉遣いも紳士的で、尊
大なところがなく、台独運動を堅持して一歩も引かなかった。ブラックリストによる制限
を解かれ、1992年に台湾へ戻って以来、台独運動の中心的な戦略立案者であり、その中核
のリーダーであった。全身全力で台独運動に打ち込むユニークな風格が実に印象深かっ
た。また台湾派の運動に尽力し、資金およびマンパワーを提供した。国策顧問に就任した
ときの報酬も全て台独聯盟に寄付して台独運動を推進し、台湾派の団体の幹部をはじめと
する後進を引き立てることに力を尽くした。
「…これまでまるまる50年、半分の時間は私はほとんど台独運動に費やした。私の生涯は
喜びに満ち、とてもうまくいったと思う。私らしく生きる機会が与えられたからだ。嬉し
いです。ありがとう。ありがとう」
これは、彼がラジオのインタビューを受けたときに語った、飾りない素直な言葉だ。心
打たれる。
「わたしは戦いを立派に戦い抜き、走るべき行程を走りつくし、信仰を守り通した」と
いう言葉は聖書の言葉だが、昭堂先生が生涯をかけ、台湾を正常で独立した国家にするた
めにした努力を表している。すべての台湾人が昭堂先生のように喜びの精神をもって、台
湾を正常で独立した国家にするという彼の使命を引き継ぎ、彼が残したモデルを、この麗
しい島に永久に打ち立てることを期待する。
2012年正月
(翻訳:台湾独立建国聯盟日本本部)