村の何不自由ない家庭に育った。父・黄賜川はもともと製糖工場の原料の運送を手配して
いたが、後に魚●(土偏に榲のつくり)(魚の養殖池)を多数所有し経営していた。
二二八事件の1947年、父親が地元の二二八処理委員会の食料委員を担当したため、20名
あまりの憲兵隊に家を包囲された。5、6名の中国兵が父親を連行しようと屋内に押し入っ
た。当時、中学2年生だった黄昭堂先生が応対し、父親がどこにいるか知らないと答えると、
中国兵は彼を殴打した。父親は連行を逃れたが、しばらく身を隠し、家族が40万台湾ドル
とトラック1台で台南憲兵隊長と「調整」してから、自首をするという形で事なきを得た。
二二八事件の見聞に加え、当時は台湾人が中国語を強制されたり、台南一中で中国国民
党への入党を強制された経験から、先生は「中華民国体制」へ反感を持つようになる。
台南一中で学んだ6年間、先生は王育徳先生に地理歴史の指導を受けた。台湾大学法学部
経済学科を卒業すると、1958年に兵役を終えて日本へ留学し、東京大学大学院で国際政治
を研究した。
一方、王育徳先生は兄の王育霖検察官が二二八事件で連行されて行方不明になった後、
自身も政府から命を狙われ、1949年に香港を経て日本に逃亡していた。
黄昭堂先生は日本へ来て間もなく、王育徳先生を訪ねて再会を果たした。2人は頻繁に会
って語り合ううちに意気投合し、「蒋介石政権を倒して、台湾に民主的な国を作るために
行動を起こそう」と決心した。そして、廖春栄氏ら東京大学に留学していた留学生に呼び
かけ、1960年に「台湾青年社」を創立した。これが台湾の外で最も組織力と宣伝力を持つ
ようになった「台湾独立聯盟」の前身である。主な活動は、雑誌『台湾青年』の発行で、
台湾人意識を鼓舞し、台湾独立思想を啓蒙することを目的とした。
黄昭堂先生は以後、台湾独立運動の中心的な幹部となった。先生は日本・アメリカ・カ
ナダ・欧州および南米各地の同志を結びつけ、1970年、アメリカに本部を置く世界的な台
湾独立聯盟を成立させ、内外の台湾人が大道団結して台湾独立運動へ参画する道を拓いた。
1962年、黄昭堂先生は『台湾青年』に加わったとして、中華民国駐日領事によってパス
ポートを停止された。しかし、日本での在留許可を延長するため、先生と『台湾青年』の
同志は、できるだけ学位取得を先に延ばし、全力で台湾独立運動に取り組むことを誓い合
った。
東大では修士課程は3年、博士課程は5年にわたって在学した。在学期間、黄昭堂先生は
妻黄謝蓮治と小さな家庭を築き、1964年には「台湾青年会」の第2代委員長に選ばれ、大き
な責任を負った。
当時、中国国民党があちらこちらで台湾青年会の秘密盟員を探り出そうとし、陳純真情
報漏洩事件が起きた。台湾の家族にも圧力がかかり、仕送りが来なくなった。さまざまな
困窮と圧力の下、寝つけない日々、真夜中に悪夢に跳び起きる日々を強いられた。
黄昭堂先生の初期の勉学は、台湾独立運動のために選ばざるを得なかったといえる。時
間は留学生に台湾独立の理念を宣伝することと活動資金集めのために使うべきで、一日中
図書館にいることに罪悪感を覚えていた。しかし、王育徳先生の学問への熱意の影響を受
けたこと、また、日本の国会図書館でハーバード大学出身の中国通と出会い、台湾独立に
ついて何度か討論したことがきっかけとなり、先生は台湾史を研究し、台湾独立運動につ
いて語る「ブロークンイングリッシュ」を身につけた。
1962年、その前年に台湾島内で起きた蘇東啓台独武装蜂起事件によって200、300人が逮
捕されたことを日本で知った黄昭堂先生は、アメリカの友人に救援を求め、死刑判決を受
けていた蘇東啓ら3人の命を救うことに成功した。
黄昭堂先生は、夭折した兄の黄有仁を偲び、黄有仁の名で台湾独立運動の文章を発表し、
本名で学術論文を発表した。1人で2足の草鞋を履き、いつも、台湾独立のための仕事を終
えてから、夜間の時間を利用して学問に励み、論文を書いた。
柳文卿事件で拘留されたのは、東京大学に博士号審査論文『台湾民主国の研究』を提出
したばかりのときだった。この博士論文はその後、東京大学出版会から刊行された。これ
は、留学生が出版した初の学術著作となった。東京大学が与えた博士号の学位記も、黄昭
堂先生の強い主張で、慣例を破り、その国籍を台湾と明記している。
1976年には彭明敏博士との共著で『台湾の法的地位』を出版した。国際法の視点から「台
湾地位未定論」を論証した学術著作で、台湾独立建国にとって重要な学術理論を提供した。
また、黄昭堂先生が刊行した『台湾総督府』は、日本統治時代の台湾史へのコンパクトな
入門書であり、日本および台湾で版を重ねた。1987年の『台湾・爆発力の秘密』では台湾
の中小企業の活力について分析し、日本でベストセラーとなった。
1992年11月25日、黄昭堂先生は34年ぶりにブラックリストを解除され、妻の黄謝蓮治夫
人とともに台南七股の下山仔寮の実家に戻り、早逝した父、祖母、母親、そして妻の両親
の墓参りをした。国民党のブラックリストに載せられたために、葬式に出ることもできず、
日本にいて、肉親の葬送の様子をビデオで見送ることしかできなかったのだ。
1995年、黄昭堂先生は台湾独立建国聯盟の主席に就任。台湾の実情を観察し、「成功は
必ずしも我にあらず」の無私の精神で独立運動に挺身した。当時、昭和大学教授として在
任中であり、夫妻は隔週で台湾と日本の間を往復した。台湾で独立建国運動を導き、日本
で教鞭を執った。夫妻が台湾に定住したのは1998年に大学を退職してからのことだった。
2000年5月に民進党が政権に就くと、先生は総統府の国策顧問となり、6月には台湾安保
協会を設立して理事長に就いた。2004年の総統選挙では、「228手護台湾」という220万
人が参加した人間の鎖運動を総指揮者として成功に導いた。生涯のうちでもっとも愉快な
ことの一つだったと、先生はよく語っていた。
2004年9月6日、不幸にして愛妻・謝蓮治を病で失い、同年12月5日に義光教会で許承道牧
師から洗礼を受けた。
黄昭堂先生は叡智と大きな包容力を持ち、2011年2月25日には、率先して、蔡英文・民進
党主席を民進党の総統候補にするよう推薦した。また10月11日には新聞に寄稿し、蔡英文
氏の「台湾コンセンサスとは民主主義のコンセンサスである」という主張を支持した。
2011年11月17日午前、黄昭堂先生が大動脈解離のため急逝したという知らせは、なんと
も受け入れがたく、悔やまれるものであった。
黄昭堂先生は、全生涯を台湾独立建国運動に捧げた台湾の民族主義者である。しかし、
先生は、民族主義とは民主、寛容の精神を伴うものだとし、ナショナリズムを「那想那利
斯文」と翻訳した。これは台湾語で「Ná siū? ná leh su-bûn」、つまり「考えるほどに紳
士淑女的である」という意味である。
【執筆・台湾独立建国聯盟本部 翻訳・台湾独立建国聯盟日本本部】