高座海軍工廠、80年も続く日台の交流  石川 公弘(高座日台交流の会会長)

 大東亜戦争のさなかの1943年5月、台湾から雷電などの戦闘機などをつくるため、13歳から15歳までを中心とするいわゆる「台湾少年工」の第1陣が来日しました。翌年5月までに約8,400人の台湾少年工が来日しています。

 今年は来日から80年を迎えました。

 日本の高座日台交流の会(石川公弘会長)と台湾高座会(李雪峰会長)はこれまで、来日50年、60年、70年、75年を記念して記念大会を開催してまいりました。

 しかし、97歳(1926年生まれ)の李雪峰会長をはじめ、かつての台湾少年工たちも全員90歳を超える高齢。日本側にしても、石川会長は1934年生まれですでに89歳。

 日台双方とも80周年記念大会は無理だろうと思っていたところ、春先から80周年記念大会をやろうという機運が盛り上がり、去る8月5日、高雄市において台湾高座少年工渡日80周年記念大会と台湾高座少年工顕彰碑除幕式が行われました。

 台湾側からは、李雪峰・台湾高座台日交流協会会長ほか10名の元少年工の方々や、二世世代の何敏豪・台日交流高座之友会会長などが参加し、日本からも、石川公弘・高座日台交流の会会長、橋本理吉・同会事務局長、そして二世世代の橋本吉宣・日台高座友の会会長など40余名が参加しました。日本台湾交流協会高雄事務所からも、奥正史・高雄事務所長と是枝憲一郎・次長が参加したそうです。

 日本台湾交流協会のフェイスブックは「高雄市内のホテルで行われた記念大会では、在日中に不幸にして亡くなった少年工に対してまず黙祷を捧げ、元少年工10名を囲んでその健勝を喜び合いながら、元少年工が台湾へ戻ってから綿々と築いてきた日台間の交流と友情を噛みしめながら旧交を温めた」と伝えています。

 また、「高座の友情よ 台湾よ日本よ 永遠なれ」と刻まれた台湾高座少年工顕彰碑除幕式は高雄市旗津の「戦争と平和記念公園」で執り行われました。

 台湾高座少年工渡日80周年記念大会で、石川会長は当時の台湾総督・長谷川清大将が「台湾少年工を将来は立派な航空機技師として帰郷させるという」非常に厳しい条件をつけていたことや、「長谷川清・台湾総統の『内台一如』の願いは、二つの民族が持つ『人間の優しさ』の交流により、80年を経た今日も見事に花開いている」などと述べ、参加者に感銘を与えたそうです。

 石川会長は89歳の身でよくぞ台湾を訪問していただいたと感心しました。また、感銘深い挨拶をされましたので、ここに石川会長の挨拶全文と日本台湾交流協会がフェイスブックに掲載したレポートをご紹介します。

◆台湾高座少年工渡日80周年記念大会と台湾高座少年工顕彰碑除幕式が行われました 【日本台湾交流協会フェイスブック:2023年8月7日】 https://m.facebook.com/JapanTaiwanExchangeAssociation/posts/599930348974920?ref=embed_post

—————————————————————————————–高座海軍工廠、80年も続く日台の交流石川 公弘(高座日台交流の会会長)

◆起死回生の戦闘機生産計画

 高座海軍工廠発足時の幹部・音田正巳氏(元海軍少佐)の回想記に次のような文章がある。

<昭和18年12月、東京大学の恩師、河合栄次郎先生宅の研究会で、朝日新聞記者の土屋清氏が、極秘情報だから一切他言しないでほしいと言って次のような話をした。現下の戦況は至って不利だが、目下海軍で戦闘機の大量生産計画が動き出している。もしこれが成功するなら、連合軍に一大打撃を与え、講和のチャンスをつかむことが出来るかもしれないと。私の着任した空C廠は、まさにこのような国家的悲願の中で建設されていた。

 空C廠は昭和19年4月1日、高座海軍工廠と命名された。基本計画は山本五十六大将が最も信頼していた澤井秀夫大佐によって作成され、新鋭戦闘機・雷電を年産6千機製造する計画だったが、私が赴任したとき、澤井大佐は既に転出され、生産計画は月産百機に縮小されていた。高座海軍工廠も所詮、応急的に建設された工廠で、澤井大佐の描く戦闘機マスプロダクションと言うビジョンが育つ基盤は、日本にはまだ存在しなかったのである。>

◆海軍は優秀な労働力を台湾の青少年に求めた

 当時の日本内地には、先進的な戦闘機を製造するための優秀な労働力が、決定的に不足していたので、帝国海軍はこれを台湾の青少年に求めたのである。

 日本統治が始まってから約半世紀、台湾には日本語を話す向上心に富む多くの青少年がいた。海軍はここに目をつけ、働きながら学べば5年間で旧制工業中学の卒業資格を与えるという条件で募集をかけた。

◆「内台一如」を絶対的条件とした長谷川清・台湾総督

 私は最近、当時の台湾総督・長谷川清大将がこの計画に関して非常に厳しい条件をつけていたことを知った。それは「内台一如」という内地人と台湾人を絶対に差別せず、台湾少年工を将来は立派な航空機技師として帰郷させるという条件だった。

 長谷川総督は自身が「内台一如」の実践者として評価が高かったが、総督が頭の中に描いていたのは、当時の台湾での「内台一如」の成功例・八田与一技師による嘉南大[土川]の大工事であった。

◆海軍省はベストの態勢を組んで台湾少年工を迎えた

 時の海軍省は長谷川総督の厳しい条件に応える姿勢を示した。まず工廠長に航空機生産の権威・澤木秀夫大佐、ナンバー2の総務部長には海軍省きっての人事・労務管理の権威者である安田忠吉大佐を当てた。

 その安田大佐は新設工廠の基幹人事に当たって技術的に優秀なだけでなく、人間的にも優れた人間を配置した。「内台一如」の態勢づくりで台湾少年工を迎えたのである。藤沢市鵠沼小学校の校長をしていた私の父親が、台湾少年工の寄宿舎の舎監として赴任したのも、関東大震災時の朝鮮人暴動騒ぎの時の公正な対応を評価され、安田大佐がわざわざ校長室まできて、説得されたかららしい。

◆台湾少年工を巡っての多くの美談

 こうした態勢作りの効果なのだろうか。台湾少年工は素晴らしい成果を残した。また、僅か2年有余しか存在しなかった高座海工廠だが、多くの美談が残っている。

 台湾少年工から兄のように慕われた大和正也大尉、後に「人生フルーツ」という映画の主人公になった津端修一大尉、敗戦後も台湾少年工を飢えさせないよう大量の米を確保した音田正巳少佐、後に連合艦隊司令長官となった豊田副武・横須賀鎮守府長官に、内地への航路変更を決断させ、台湾少年工の内地行きを完全に成功させた小川三郎中尉、終戦直前に発生した少年工6人の爆死事件の責任を感じ、戦災に遭った自宅の復興より先に戦没台湾少年工の慰霊碑を建立し、台湾各地の慰霊の旅を行った早川金次技手、その他、生産ラインで種々親切に指導してくれた職長たち、生産現場で少年工と親密に交流した女子挺身隊員の人たち、大和を中心に高座各地で少年工の面倒を見てくれた農家のお母さんなど、素晴らしい話は無数にある。

◆恨みは水に流し恩義は石に刻む台湾人の素晴らしさ

 しかしより素晴らしいのは、この工廠の幹部や農家のお母さんたちのわずかな優しさを感じ取り、それに感謝する台湾少年工の心の優しさである。

 恨みは水に流し、恩義は石に刻むという言葉があるが、この言葉通りの元台湾少年工・黄文木さんの大和正也大尉への40年ぶりの礼状を読み、私は仰天してしまった。戦時中の自分たちに対する大和大尉の温かい心遣いに戒厳令下では礼状を出せなかったので、40年ぶりに書いたという。

 しかも、このケースは稀有の例外ではなかった。親切にしてくれた職長に、40年ぶりにお礼をしようと新聞広告までしたという話まである。

 これは、同じ島国に住む民族が共通して持つ人間の優しさなのかもしれないが、台湾の人たちのお礼は倍返しだ。高座海軍工廠を基盤とした相互の交流が80年も続くのは、こうした台湾人の優しさなのだ。

 日本海軍の意図した高座海軍工廠は、残念ながら敗戦によりその所期の成果を挙げることはできなかったが、長谷川清・台湾総統の「内台一如」の願いは、二つの民族が持つ「人間の優しさ」の交流により、80年を経た今日も見事に花開いているのである。

 なお、長谷川清総督は昭和19年末にその職を辞され、その後は命がけで終戦工作に尽力された。昭和天皇が揺るがぬ決意で終戦を断行されたのには、長谷川清大将の戦況に関する正確な報告が基礎にあったという。

 長谷川清提督の胸の内には、自分が送り出した8400名の少年たちを無事に親元へ帰さねばという強い責任感があったのだと、私は考えている。

※この記事はメルマガ「日台共栄」のバックナンバーです。