中市の国際美食館という素晴らしい会場で、盛大に開催されますこと、心からお祝い申し上げま
す。
さて、台湾高座会の皆様が、志半ばで帰国されてからの70年は、多くの苦難を乗り越えられた年
月でした。皆様のご苦労とそれを乗り越えた勇気と努力に、改めて敬意を払うものであります。
李登輝元台湾総統も高く評価されますように、台湾高座会の皆様のこの70年間は、
1.発展する台湾経済への技術を活かした貢献
2.李登輝民主革命における尖兵としての貢献
3.日台親善交流における親日最大勢力としての貢献
の年月でありました。
本日はこのうちの第3について話をさせてください。私が台湾高座会の関係で台湾を最初に訪れ
たのは、1992年彰化市で開催された第5回台湾高座会全国大会でした。そのとき、台湾を案内して
くれたのが、当時台北区会の総幹事だった今は亡き許錫福さんでした。
その時、私は許錫福さんに、戦時中のご苦労を思い、「許さん、戦時中はご苦労をかけて申し訳
ありませんでした」と日本人を代表するような気持ちで詫びました。すると、それまで常にニコニ
コしながら話していた許錫福さんが、一瞬厳しい顔をして言ったのです。
「石川さん、謝る必要なんかありませんよ。私たちだけが苦労をしたのなら恨みもしますが、当時
の日本人はみんな苦労していたのです。その証拠に、私たちといくらも年の違わない多くの日本の
若者が、爆弾を抱えて敵艦に突入して行ったではありませんか。彼らの苦しみに比べたら、私たち
の苦労など、物の数ではありません」と。
許錫福さんは言葉を継ぎました。「最近の日本人は謝り過ぎです。中国や韓国が文句を言うと、
総理大臣以下、すぐに謝ってしまう。情けない。確かに先の戦争は無茶なところがあった。しかし
あの戦争のお蔭で、アジアの国々は独立できたのです。残念ながら、台湾は出来なかったが。石川
さん、その意味であの戦争は正に大東亜戦争だったのです」と。
その言葉に私は強い衝撃を受けました。まさか台湾で、その言葉を聞くとは思いませんでした。
戦後教育の場で受けてきた私の歴史観が、音を立てて崩れていきました。それを機に、私は自分の
歴史観を変えました。正に台湾が、台湾少年工だった許錫福さんが、私の歴史観を変えたのです。
確かに許さんが言うように、日本の政治家の対応は、恥ずかしいものでした。2001年、すでに李
登輝さんが総統の地位から退かれ、心臓手術のため日本へ来られるときの、当時の日本の外務省や
大臣の対応は、全く私を悲しませました。中国の意向に沿って李登輝総統へのビザ発給に反対する
大臣、それを擁護するため「李登輝さんからビザの発給要請はない」とウソまでついた外務省。そ
れを知って李登輝総統は、日本の外務大臣の肝っ玉は、ネズミのそれより小さい」と嘆かれまし
た。私は怒りに震えました。
しかし台湾高座会のみなさん、安心して下さい。現在の日本は大きく変化しています。特に安倍
内閣になってから、日本の台湾に対する姿勢は大きく変わりました。それには、台湾高座会の皆さ
んのように一貫して日本を愛する台湾人の存在を多くの日本人が知るようなったからです。また、
東日本大震災のときの、世界一多額な、しかも迅速な支援も、変化を呼んだ大きな原因です。
本年7月、日本の衆参国会議員40名が発起人となって、「李登輝先生の講演を実現する国会議員
の会」が設立され、衆議院第一議員会館で講演会が開催されました。講演会には全国会議員の40%
に当たる292人が出席、代理出席を含めると404人が出席しました。
李登輝総統は「台湾のパラダイムの変遷」と題して50分近く、立ったまま元気に話されました。
また、「一つの中国、台湾はその一部」などという考えは認められないとか、「安全保障関連法案
の成立は、東アジアの平和維持に不可欠」と、その信念を述べられました。終わるとしばらくの
間、拍手が止みませんでした。その様子を見て、私は流れる涙を止めることができませんでした。
李登輝の日本訪問に反対し、特にその政治的発言に神経をとがらしている中国政府は全く形無しで
す。
この講演会の主軸になって動き、講演会では司会まで努めたのが、日台若手議連の岸信夫衆議院
議員です。ご存知のように安倍晋三総理の実弟です。彼は李登輝さんばかりでなく、その後来日さ
れた民進党の蔡英文総統候補にも、多くの支援を行っています。
アメリカも、中国が国際法を無視して不法に造成している人工島を認めず、イージス艦に12カイ
リ以内を航行させたり、B52に周辺空域を航行させたりしています。あの行動は、近く行われる台
湾の総統選挙を意識したものと私は考えています。台湾は孤立していません。自由と民主主義を愛
する世界の多くの国民も、自由を愛する台湾人と共にあります。心からそれを伝えて、台湾高座会
帰国70周年に寄せるご挨拶とします。