香港版国家安全法は中国を苦境に追い込む 町田 徹(経済ジャーナリスト)

 中国が香港に新たな「国家安全法」を導入することを採択した後の香港で、これまで認められてきた天安門事件の犠牲者を追悼する集会が初めて禁止された。香港政府は武漢肺炎を理由にしているが、香港版国家安全法の導入されることが決まったことと相まって、言論や集会の自由を圧殺すると反発が強まっていると報じられている。

 一国二制度を崩壊させかねない「香港版国家安全法」に対しては、周知のように、米国と旧宗主国の英国、カナダ、オーストラリアの4カ国は「英中共同声明に反する」とする共同声明を発表し、日本やフランス、ドイツなど少なからぬ国が憂慮を表明している。

 台湾でも5月29日の立法院本会議において与野党が「『香港版国家安全法』は、『香港人による香港支配、高度な自治』、『50年不変』などの承諾を反故にした」と批判、民主主義や自由を守る香港住民を支持する立場を表明する共同声明を発表した。不倶戴天の仲と言われる台湾の与野党が共同声明を発表するなど異例と言うべきだろう。

 中国の習近平政権には明らかに分が悪い。習近平政権は、英国からの返還後、2047年までの50年間、香港の高度な自治を維持するとした「英中共同声明」に抵触することを知りながら「香港版国家安全法」を可決した。なぜか。

 元日本経済新聞記者で経済ジャーナリストの町田徹氏は、昨年来の香港の大規模デモに鑑み「習近平政権としては、これ以上、手をこまねいてはいられないという苛立ちがあったのは事実だろう」「新型コロナウイルスの対応で、中国は今なお、内外からの批判にさらされており、この面も含めて、余裕がないのだろう」と指摘する。

 しかし、李克強首相が同法導入について「1国2制度を安定させ、香港の長期的繁栄を守るものだ」と主張したことを詭弁と断じ、香港関連策で弱腰外交など見せられないと考えているのかもしれないが「ここは習近平体制がしっかりと自重すべきである」と釘を刺している。

—————————————————————————————–町田徹(経済ジャーナリスト)暴走止まらぬ中国・習近平、意地でも「香港国家安全法」を急ぐワケ世界にまた新たな火種が…【現代ビジネス:2020年6月2日】https://gendai.ismedia.jp/articles/-/73003

◆中国を襲う内憂外患

 中国の習近平国家主席は5月28日、香港の自由と自治を揺るがす歴史的な方針転換に動いた。中国の国会に相当する「全人代(全国人民代表大会)」で、反体制運動を禁止する「香港国家安全法」の制定方針を採択して、全人代を閉幕したのだ。明らかに、香港の最大の特色である「1国2制度」の終焉にリーチをかける行為である。

 そもそも、香港は、英国の19世紀のアヘン戦争の勝利によって南京条約で同国に割譲された島だ。租借期限が切れ、中国への返還式典が行われた1997年7月1日、当時の江沢民国家主席は居並ぶ各国要人を前にして1国2制度の堅持を表明した。

 具体的には、香港を「高度な自治」権を持つ特別行政区とする「香港基本法」を制定、「従来の資本主義制度および生活様式を保持し、50年間変更しない」ことを保障したのだ。

 1国2制度が定められた背景には、香港住民と国際社会が、人権を抑圧する中国型の統治制度が香港に持ち込まれると危惧したことがある。香港返還に関する中国と英国の共同声明にも、中国が香港に言論、出版、集会、結社などの権利と自由を保障すると明記されている。

 このように中国には、香港住民と国際社会に約束したことを守る義務がある。しかし、返還から23年が経ち、ここ数年は、中国が香港の民主化運動を抑圧すればするほど香港の民主化運動は大規模化・過激化してきた。中国当局が発想転換を求められているのは明らかだ。

 すでにトランプ米政権が制裁措置を打ち出しただけでなく、国際社会も外為市場も固唾を飲んで中国の次の出方を見守っている。経済成長の大幅低下予測、中国からの資本流出懸念、対米貿易戦争の再燃、新型コロナウイルス対策など内憂外患に溢れる習近平体制にまったく余裕がないのは明らかだ。

 しかし、ここは習近平体制がしっかりと自重すべきである。もし、米国との報復合戦を始めたりすれば、国際情勢は第2次世界大戦以降最悪の事態に陥りかねない。

◆香港の「1国2制度」終焉へ

 1国2制度とは、英国からの返還後も50年間、つまり2047年まで、香港では社会主義を実施せず、香港の高度な自治を維持するというものだ。中国領の一部である香港(島)に、中国本土とは異なる制度を適用することから1国2制度と呼ばれている。

 仕組みとしては、香港は特別行政区として独自の行政、立法、司法権を有し、中国本土では認められない言論・集会の自由が認められている。また、通貨やパスポートの発行権を持っている。

 半面、中国は、香港版の憲法にあたる香港基本法の解釈・改正権のほか、政府高官の任命権を握っており、香港を間接的にコントロールする仕組みを担保している。

 香港では、伝統的な民主派議員が1国2制度を前提とした自主権の維持・拡大を求めている一方、一部の若者には期限を迎える2047年以降は1国2制度に縛られず、中国からの独立も含めて住民投票で決するべきだと主張する層も増えているという。

 1国2制度はもともと、中国が台湾を統一するための方策として考え出されたものだ。当の台湾は、中国が年々香港への締め付けを強めるのを横目に見て、一段と警戒感を強めている。今年1月、過去最多得票で再選された、台湾の蔡英文総統は「香港は1国2制度が失敗し、秩序を失っている」として、同制度の受け入れは拒否すると主張している。

 そうした中で、全人代が5月28日に賛成2878、反対1、棄権6と圧倒的多数で可決し、反体制活動を厳しく取り締まる「国家安全法」を香港に導入する方針が決まった。今夏にも具体的な法整備を行う模様だが、その方針には、中国の分裂や共産党政権の転覆、組織的なテロ活動、外部勢力による内政干渉を禁止するとし、中央政府機関が香港政府に組織を設置し、国家安全に関連する職責を果たすと明記している。

◆苛立ちを隠せない習近平

 香港の林鄭月娥・行政長官は全人代の採決に先立つ5月25日、国家安全法が成立すれば、香港では「『反逆、分離独立、扇動、反政府』行為などが禁止される。香港の活動家は、これを香港の自由を制限するものだと批判しているが、法に従っている大半の市民を守るための『責任ある』取り組みだ」と擁護した。

 また、李克強・中国首相も全人代の閉会後の記者会見で、同法導入は「1国2制度を安定させ、香港の長期的繁栄を守るものだ」と主張した。

 習近平政権としては、これ以上、手をこまねいてはいられないという苛立ちがあったのは事実だろう。そ もそも「香港の憲法」といわれる香港基本法の23条には、香港政府が自ら国家分裂や政権転覆などを禁じる法律を制定しなければならないと規定しているからだ。規定に従い、香港政府は2003年に、この立法を試みたが、大規模な反対活動に遭い条例案の撤回に追い込まれた。

 また、昨年6月以降は、香港に逃げた刑事事件の容疑者を中国本土に引き渡せるようにする「逃亡犯条例」を巡り、香港で大規模な抗議デモが長期間繰り返された。

 そして昨年11月の香港区議会議員選挙では、7割以上の投票率で民主派が全議席の8割超を獲得して圧勝。「逃亡犯条例」に反対する大規模デモへの支持の高さと、締め付けを強める中国政府への反感を浮き彫りにした。デモ参加者は勢い付き、行政長官選挙の民主化など要求項目を増やしている。

 こうした経緯から、習近平政権は香港政府が自力で国家安全に関する立法を実現するのは困難と判断、香港基本法の例外規定を使い、中国本土の法律を直接適用する立法手法を採ることにしたというのである。

◆抗議デモの再燃

 だが、国家安全法が近く施行されれば、詭弁が詭弁に過ぎないことが明かにする可能性が高い。例えば、CCTV(中国国営中央テレビ)によると、中国軍の香港駐留部隊の司令官は同法について「分裂勢力や外部の干渉勢力を震え上がらせるだろう」とコメントした。こうした姿勢は、その証左とみてよいだろう。

 当然ながら、全人代が香港立法府の頭越しに「香港版国家安全法」の本土側での策定を仕掛けたことを、香港の市民活動家たちは容認しなかった。コロナ騒ぎで鎮静化させていた抗議活動を再開し始めたのだ。

 5月23日にはコロナの感染流行後最大という抗議集会があったほか、5月27日にも国家安全法への抗議が呼びかけられ、昼すぎから繁華街に若者が集まった。複数の繁華街で次々に抗議デモが起き、1千人以上が参加したとされる。

 香港では新型コロナウイルス対策で9人以上の集会が禁止されていることからこれらのデモは、武装警察官が出動して解散を命じる事態を招き、街は物々しい雰囲気に包まれたという。結局、当局がこの日の午後9時半(日本時間10時半)までに360人以上を逮捕したと伝えられている。

 早くも、トランプ米大統領は5月29日に記者会見を開き、中国が香港への統制を強化する「香港国家安全法」の導入を決めたことについて、「香港にはもはや十分な自治はなく、私たちが提供してきた特別扱いに値しない。中国は『1国2制度』を『1国1制度』に置き換えた」と中国を強く批判した。そのうえで、対抗(制裁)措置として、米国が香港に認めている優遇措置の廃止に向けた手続きに入るほか、中国や香港の当局者への制裁を行うと発表した。

◆ついに米国はWHOを脱退し…

 米国はこれまで、香港の「高度な自治」を前提に、優遇措置を提供してきたが、トランプ氏は会見で「関税や渡航の優遇措置を取り消す」と明言した。こうなると、香港原産品にも米国の対中制裁関税が適用されるし、香港市民は中国本土の中国人よりも容易に米国の査証(ビザ)を取得できるという特権を失うことになる。

 関税見直しでは、香港経由の中国の対米輸出が不利になるが、香港経済や香港に拠点を置く米国企業もその影響を免れない。また、香港は昨年、米国にとって最大の貿易黒字国・地域であり、その黒字約260億ドルが吹き飛びかねない問題もある。

 加えて、トランプ氏によると、撤廃される優遇措置には、犯罪人引き渡しや軍民両用技術の輸出規制など広範な施策が含まれるという。また、中国や香港の当局者への制裁では、香港の自治の侵害に関わった人物らを対象とし、ビザ発給停止や発給済みビザ取り消し、米国内にある資産の凍結などが検討されている。

 トランプ大統領は、関連して、かねて「中国寄り」と批判してきたWHO(世界保健機関)から脱退する意向も表明した。要求してきた「必要な改革を実施しなかったため関係を断絶する」と述べ、WHO向けの拠出金は他の公衆衛生分野に振り向けると言い放ったのだ。

 米国はWHOの最大の資金拠出国で、かつ大口の人材派遣国でもあるため、WHOの運営に支障を来たし、中南米、アフリカ諸国などへの新型コロナウイルス感染症対策の国際支援が停滞するのは必至の情勢だ。

 また、トランプ大統領は会見で、このところ控えてきた、「武漢ウイルス」という呼称を復活。改めて、新型コロナウイルスの世界的な感染拡大を巡る中国の責任追及をエスカレートさせる構えも見せた。

◆過熱する「中国叩き」

 米ジョンズ・ホプキンス大学の集計によると、日本時間の5月31日午後までに、アメリカでは新型コロナウイルス感染症の累計患者数が177万人を超え、死者は10万4000人に迫っている。アメリカ市民の間には、これだけの死者を出した新型コロナウイルス感染症の流行に関して中国政府の責任を問う強い感情が少なからず沸き起こっていることは見落とせないポイントだ。

 アメリカの挑発に乗って、中国が対抗(報復)措置に出れば、11月に大統領選挙を控えたトランプ大統領の中国叩きを選挙キャンペーンに使う再選戦略を勢い付かせて歯止め気が利かなくなり、両国関係が泥沼状態に突き進むのは確実だ。

 習近平体制に冷静に理解してもらいたいのは、香港国家安全法に批判的なのがトランプ米政権に限った話ではないことである。EU(欧州連合)のミシェル大統領は5月26日、「我々は中国の行動について甘い考えは持っていない」と中国に警告した。 

 また、イギリス、オーストラリア、カナダの3ヵ国は米国と共に、「香港市民が直接参加せずに法律を導入すれば、1国2制度の原則を明らかに損なう」との共同声明を発表。

 ラーブ英外相は、中国が同法を撤回しない場合、「英国国外市民旅券」を持つ約30万の香港住民に市民権を与える道を開くと表明した。この方針は、後述の台湾の動きと並んで、香港からの人と資産あるいは人民元の流出を加速させかねず、中国経済を窮地に追い込みかねないリスクファクターである。

 日本でも、菅義偉官房長官が5月27日の記者会見で、香港情勢に関して「政府として強く懸念している」「日本の懸念は外交ルートを通じて中国にしっかり伝えている」と明らかにした。菅氏は「1国2制度のもと従来の自由で開かれた体制が維持され、民主的、安定的に発展することが重要だ」と強調したうえで、「主要7ヵ国(G7)をはじめ関係国の動向などを情報収集し適切に対応したい」とG7諸国と協調して中国に圧力をかけていくと示唆している。

◆政治・経済両面で苦境に

 さらに、全人代の採決前日5月27日、台湾の蔡英文総統が台北市内で記者団の取材に応じて表明した2つの方針も見逃せない。1つ目は「自由と民主を追求する香港住民の決意を支持する」というもの、2つ目は「香港住民の台湾への移住を支援する」というものである。

 第1の点は、台湾がかねて交流のある香港の民主化運動への支持・支援を強める可能性を示唆している。第2の点では、「台湾での居住や労働などで必要な支援を行う」とし、すでに行政院(内閣)に具体的な施策の策定を指示したと述べている。香港住民の台湾居留許可の条件(一般的に、台湾で約2200万円以上の投資を行うこと)を緩和する可能性があるとみられている。

 香港では、昨年から台湾や英国など海外への移住希望者が増えていた。台湾では今年1〜4月の香港住民への居留許可が2383件と前年同期の2.5倍に急増したという。人の流出は、資産や人民元の流出を伴うだけに、習近平中国にとっては誘発したくない問題のはずだ。

 新型コロナウイルスの対応で、中国は今なお、内外からの批判にさらされており、この面も含めて、余裕がないのだろう。例年3月5日に開幕する全人代は、今年、スタートが新型コロナウイルスの影響で2ヵ月半遅れ、ようやく5月22日に採択した政府活動報告では、2020年の経済成長率の目標設定を見送らざるを得なかった。

 人民元も10年来の安値圏で推移している状況だ。香港関連策で弱腰外交など見せられないと、習近平体制が考えていても不思議はない。

 しかし、これ以上の香港に対する強行策は、米国以外の中国に対する反発を強めて、中国を政治・経済両面から苦境に追い込むことになりかねない。打ち出してしまった歴史的な方針転換に拘り、事態を収拾する手をこまねいていると、香港で激しい混乱が続くだけでなく、中国が世界からの孤立を深めることにもなりかねない。そして、国際情勢は緊張を過度に増すことになる。

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