陳水扁総統は「隠れ統一派」だった(2) [「台湾の声」編集長 林 建良]

台湾の民主進歩党(以下、民進党と略)は、1月の立法委員選挙に続いて3月の総統選
挙でも大敗を喫した。いったいその原因はどこにあったのだろうか。

 メールマガジン「台湾の声」編集長で日本李登輝友の会常務理事でもある林建良氏は、
「月刊日本」5月号に発表した論考において、その根本原因は陳水扁総統が2005年6月に
行った第7回憲法修正にあったと指摘している。

 また、陳水扁総統が総統に就任以来、どのような政権運営をしてきたのかを総括し、
もし総統選挙で民進党の謝長廷候補が当選していたらどうなっていたか、中国国民党の
一党支配化で台湾に残された選択肢はなにか、李登輝前総統はなぜ謝長廷支持をギリギ
リまでしなかったのかなど重要論点について、舌鋒鋭く切り込んでいる。

 台湾総統選挙後、いろいろな総括的論考が出ている。だが、台湾深奥の政治状況を的
確に踏まえた論考は少ない。その点で、この林建良氏の右に出る論考はないだろうと思
う。日本人ばかりでなく台湾人にとっても、非常に有益な論考である。

 かなり長い論考なので、分載してご紹介したい。

 なお、5月10日発行のメルマガ「台湾の声」にその全文が掲載されたが、これは林建
良氏が「月刊日本」に寄せた原文のようで、「月刊日本」5月号の表記と異なる箇所が
見られることに鑑み、本誌では「月刊日本」から転載して紹介したい。

                   (メルマガ「日台共栄」編集長 柚原 正敬)


陳水扁総統は「隠れ統一派」だった(2)─民進党は己の無知と傲慢に負けた

                         「台湾の声」編集長 林 建良

●不況をもたらした陳水扁の「対中経済統合論」

 2000年の大晦日、彼は総統としてテレビ演説を行った。その内容は「我々はまず文化
的経済的の面から中国と統合しなければならない。最終的には政治的にも統合しなけれ
ばならないのだ」というものである。独立派台湾人の大半は自分の耳を疑った。だが彼
を批判する声よりも、初心者運転だから大目に見ろとの声が大きかった。しかし、この
「経済統合論」は後の「経済発展会議」の布石となり、陳水扁政権の対中国政策の核心
になっていく。

 陳水扁の「対中経済統合論」が具体的な政策になって登場したのは2001年10月に行わ
れた「経済発展会議」であった。李登輝政権の慎重な対中国経済政策である「戒急用忍」
(急がず忍耐強く)を「積極開放」に転換した。それによって、それまで制限されてい
た7000項目のハイテク投資や技術を中国に解禁した。

 その結果として、台湾企業が中国になだれ込んで中国の技術向上と経済発展に大きく
貢献し、中国のITハイテク産業の8割が台湾資本によるものになった。一方、台湾で
は産業の空洞化が進み、失業率も所得格差も深刻な状態に陥った。陳政権の経済政策に
よって対中国投資が1999年の27・7%から2005年の71・1%に上り、対中国貿易依存度も
2000年の23%から2007年の41%となって、危険水域を遥に越えた。

 中国の経済力の増強は台湾に景気の凋落をもたらすのみならず、軍事力の増強にも繋
がり、台湾の安全網に大きく穴を開ける最大の要因となっているのだ。経済学者の黄天
麟氏は陳政権の経済統合政策を「割肉飼虎」(自分の肉を切り取って虎に食べさせる)
と形容しているが、筆者から見れば、この政策は売国行為以外の何物でもないのである。

 2002年3月、筆者は総統府で陳水扁と会い、何故台湾のハイテク技術を中国に開放す
る必要があるのかと問い詰めた。すると彼は「だって、取り締まろうと思っても取り締
まりきれないから、開放するしかないでしょう」といったのである。この答えには絶句
するしかない。これでは泥棒を取り締まりきれないから窃盗を合法にするしかないとい
うも同然の理屈である。陳水扁に対する敬意が一瞬にして消えると、目の前にいたのは、
国家元首の衣装を纏った薄汚いペテン師だった。

●正名も制憲も選挙の道具にすぎなかった

 陳水扁の対中経済統合政策とは企業との癒着の産物であるが、親中国派をも喜ばせよ
うという打算があった。しかし、底の浅い彼はそれを演じきれるほどの役者ではなかっ
たのである。選挙が近づくと、国民党との対抗軸を鮮明にする以外の手立てがないため
に彼は独立派の仮面を被り、独立の闘士役を演じた。

 二期目の総統選で、彼は独立派が待ち望んだ台湾新憲法の制定をつい選挙公約にした。
のみならず、2006年までに新憲法草案を纏め、2007年に施行するという具体的なタイム
テーブルまで明示して国民に公言したのである。更に新憲法制定委員会を設置して憲法
学者の李鴻禧氏を委員長にした。

 筆者は李鴻禧氏を東京に招き、新憲法制定に関する講演会を主催した。その後、李氏
に陳水扁は本気なのかと聞いてみた。李氏は「もちろん本気だ、本気でなければ、俺も
このポストにつかなかった」。このような疑問を持つものは一人ではなかったのであろ
う。

 陳水扁はその後の演説で、必ずと言っていいほど、「不退転の決意で新憲法を制定す
る」と強調していた。その威勢のいい演説は、独立を熱望する支持者に希望を抱かせ、
奮い立たせ、選挙終盤の2月28日に、台湾全人口の1割である220万人を動員して台湾全
土を人間の鎖で繋ぐというかつてない大イベントを可能にした。台湾全土が沸騰するか
のような熱気に包まれ、誰もが台湾新憲法制定が現実になる第一歩だと思った。その国
民の期待を一身に背負った陳水扁は英雄どころではなく神にさえ見えた。

●独立派の旗を取り締った陳水扁

 だが、その希望と喜びは束の間だった。正名と制憲が陳水扁の選挙の道具にすぎなか
ったと分かるのに、大した時間はかからなかったのである。陳水扁は僅差で勝ち、選挙
結果に不満を持つ国民党の支持者が選挙の直後騒動を起こして、総統府前の広場を1ヶ
月も占拠した。その時陳水扁は軍の重武装で厳重に警備された官邸に閉じこもり、選挙
前の熱気と希望がウソのように台湾からきえてしまった。あるのは焦燥と不安だけであ
る。

 1ヶ月が経ち、この騒乱はようやく沈静化されたが、騒乱を起こした国民党に阿るた
めに、陳水扁は就任式の会場を「青天白日旗」で埋め尽くし、民進党や独立派の旗を持
ち込み禁止にして独立派に見られる言動を厳しく取り締った。その会場で行った総統就
任演説で彼は再度「五つのノー」に言及して独立派を落胆させた。新憲法制定の言葉も
ついに聞くことができず、あるのは憲法修正だけであった。しかしその憲法修正とは上
述の有り様である。

●「そんなことできっこない」

 正名も制憲も神聖なる建国運動も、陳水扁にとっては選挙の道具に過ぎず、権力は彼
を平気で独立派の核心的価値を弄び、平気で建国の信仰を冒涜するような傲慢な男にし
た。05年2月24日、宋楚瑜親民党党首との会談で彼は「正名與制憲不過是自欺欺人」(正
名と制憲は所詮自他陣営をたぶらかすものだ)とオフレコで述べたが、その日のうちに
宋氏に暴露された。それで開き直ったか、数日後、3月1日の欧州議会とのインターネッ
ト会議では、正名も制憲も「做不到就是做不到」(そんなことできっこない)と外国の
政治家の前で公言した。

 何よりも正名と制憲を完全に不可能にしたのはその直後の2005年6月10日に行われた
憲法改正であった。言行不一致の政治家は星の数ほどいるが、言と行が逆で、しかも恥
じることなく人のせいにする政治家は陳水扁以外に幾人いるであろう。
                                   (続く)


林 建良(りん・けんりょう)
1958年、台湾生まれ。日本交流協会奨学生として来日。東京大学大学院医学系研究科博
士課程修了。台湾独立建国聯盟日本本部国際部長。日本李登輝友の会常務理事。医師の
傍ら台湾独立運動化として活躍。著書『日本よ、こんな中国とつきあえるか?』



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