阿川弘之さんの語る「台湾の思ひ出」 【石川公弘】

李登輝前総統とお会いして大教養人を実感

 3月26日午後1時から、日本李登輝友の会総会が、市ヶ谷のアルカディア市ヶ谷で開催
された。総会終了後、二人の講師による講演会が開かれたが、聴衆を酔わせた文化勲章受
章作家・阿川弘之さんの“台湾の思い出”という軽妙な話を、場の雰囲気はとても伝えら
れないが、紹介したい。(メモと記憶が頼りなので、多少の誤りはお許しを)

 私は台湾を3回しか訪問したことがありませんが、たいへん心に残っています。1回目は
、昭和17年9月のことです。対米戦争が勃発し、大学は昭和18年3月卒業の予定が、半年繰
り上がりました。そのとき志願して海軍予備学生となり、500名の仲間と共に訓練を受ける
ため、佐世保から台湾の高雄へ向ったのです。アルゼンチン丸という船でした。

 高雄港から汽車で東海岸にある東港というところへ向い、終点一つ手前の大鵬(オオト
リ)という駅で降りました。そこは97式という最新鋭飛行艇の基地で、当時飛行艇は前線
へ出ていたので、空き家となっていました。その基地で、江田島と同様な海軍将校として
の基礎訓練を受けたのです。戦時下でしたが、台湾には何でもありました。ビフテキはな
かったけどトン(豚)テキがありました。蓬莱の島・宝の島を実感しました。実るバナナ
、水牛の背に止まる白鷺の風景などが、目を楽しませてくれました。

 分刻みの厳しい訓練を癒してくれたものに、現地の人たちとの交流がありました。台湾
の東港小学校女生徒も訪問し、合唱を聞かせてくれました。“一茶のおじさん”という歌
を二部合唱できれいに歌ってくれたことを、いまも覚えています。(阿川さんは、“一茶
のおじさん”を歌うかのように諳んじられました。)

 一茶のおじさん、一茶のおじさん、あなたのお国はどこですノ?
 ハイハイわたしの生まれはノオ 信州信濃の山奥の そのまた奥の一軒家
 すずめと遊んで居りますジャ

 そのとき、一緒に訓練を受けた同期の桜500名のうち、100名が戦死しました。

 いつかまた台湾を訪れてみたいと思っていましたが、その機会に恵まれませんでした。
しかしその間に、不思議なご縁をいただきました。昭和32年のころ、私たち家族は東京・
鷺宮の公団住宅に住んでいましたが、近所に許さんという台湾人の家族がいて、とても親
しくしていました。娘(編集部注:阿川佐和子さん)などはそのお宅の娘さんと、とても
仲がよく、いつも遊んでいました。家族が多くなり、そこから引っ越した後も付き合って
いました。ご夫婦で、台湾の独立運動や民主化運動をしているため、台湾へ帰れないとい
うお話でした。その方は、数十年後に台湾の駐日大使になられました。そのご夫婦が、今
ここにいられる許世楷大使ご夫妻です。ありがたい不思議な縁をいただいたものです。(
満場拍手)

 2回目の訪問が実現したのは、昭和51年のことで、最初の台湾訪問から、すでに33年が過
ぎていました。ブラジル大使をされていた郭少将から、“丹陽(タンヤン)先生”と、今
も私が呼んでいる人を紹介してもらいました。この丹陽先生、少年工出身ということで、
海軍大好き人間です。日本海軍の艦船をすべてシルエットで覚えているのには、びっくり
させられました。

 私は思い出の東港へ向いました。あのとき、“一茶のおじさん”を歌ってくれた少女た
ちに会いたいと思いました。40歳前後になったはずです。きれいな特急列車が走っていま
した。東港のまちを、その人たちを探しながらぶらぶらしていると、当時の校長先生に偶
然お目にかかりました。元校長、今の私のように杖を頼りにしておられましたが、とても
お元気で、「今夜うちへ泊まれ」というのです。お伺いして尽きぬ話をしましたが、私が
台湾の年号に合わせて、“民国〜年”なんて言おうものなら、“昭和で言わねばわからな
い”です。“負けたとき、負けたとき”と言われたのも印象に残っています。まだ意識が
日本人なのですね。(笑い)

 さて、丹陽先生ですが、本名ではありません。彼は戦後、台湾の港になんと帝国海軍の
“雪風”を発見したのです。戦艦大和の特攻出撃に随伴した雪風は、奇跡的に無傷で助か
り、中華民国へ引き渡されていました。そんな事情は知らない丹陽先生、スパイもどきに
港へもぐり込んで、その船が正真正銘の雪風であることを確認しました。とてもうれしか
ったそうで、生まれてきた子供に、“丹陽”と名付けたそうです。航空隊の施設を見せて
もらおうと思いましたが、あいにく日曜日で、許可権限をもつ人が居らず、外から眺めて
帰りました。

 3度目は、2001年3月のことでした。そのころ、親しくしている深田祐介という作家から
、昭和天皇のご逝去に当たり、世界の元首の中で一番深い哀悼の意を表した人は、李登輝
台湾総統だという話を聞いて、涙しました。金美齢さんからも、いろいろと李登輝さんの
話を聞いていました。ある会合で、私が李登輝さんはアジアでナンバーワンのステイツマ
ンだと言いましたら、いや世界一だと修正されたこともあります。(笑い)

 その直後、台湾の蔡焜燦さんから、もう一度、ぜひ台湾へいらっしゃいと誘われ、私ど
も夫婦や娘、それに娘の友人の檀ふみ(編集部注:女優、父は作家の檀一雄)などと訪台
しました。花蓮港やタロコ渓谷などをめぐりましたが、タロコ渓谷の雄大さにはびっくり
したものです。その時、家族全員で李登輝さんのお招きにあずかりました。優れた政治手
腕の前に、人間として大教養人であることを実感しました。そんな縁で日本李登輝友の会
の初代会長をお引き受けした次第です。

 このたび、李登輝さんの奥の細道を訪ねる旅が決まり、心から喜んでいます。ほんとう
にうれしい。熱烈な歓迎も結構ですが、できるだけ静かに、裏からそっと大歓迎ができな
いものかと思案しています。私たちの年齢になると、結構疲れるものですから。(笑い)
本日はありがとうございました。



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