2016年5月の総統就任以降、最大の焦点だった台湾経済は馬英九政権時代よりかなり安定してきている。長年の懸案だった年金問題も解決に導くなど行政的な改革もかなり多く、また人気の高い頼清徳・台南市長を行政院長(首相に相当)に引き抜き、陳菊・高雄市長を総統府秘書長(内閣官房長官に相当)に据えたにもかかわらず、その支持率(満意度)はなかなか上がらない。
支持率の低迷は、11月の統一地方選挙に大きな影響を与える。統一地方選挙の結果は、2020年の総統選と立法院選に反映する。
メディアも支持率が低迷する理由として、中国との関係改善が図られないことや改革に時間がかかりすぎることなどさまざまな理由を挙げている。
台湾の選挙分析では定評のある東京外国語大学大学院総合国際学研究院准教授の小笠原欣幸(おがさわら・よしゆき)氏が「蔡英文政権の2年―閉塞感に覆われる台湾政治」と題し、なぜ蔡英文総統の支持率が低迷しているのかを詳細に分析している。統一地方選挙の焦点選挙区である台北市の状況も分析し、民進党が独自候補者を擁立したことについて「非常に不聡明な策」と手厳しい。いささか長い論考だが、下記に全文を紹介したい。
なお、論考に引用されている「蔡英文総統の満意度の推移」などの図表はメルマガの機能では紹介できない。引用している「小笠原欣幸ホームページ」から確認していただきたい。
◆小笠原欣幸(おがさわら・よしゆき)氏プロフィール http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/ogasawara/profile.html
蔡英文政権の2年 ― 閉塞感に覆われる台湾政治 ―東京外国語大学 小笠原 欣幸http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/ogasawara/analysis/tsaiadministration4.html
蔡英文政権は4年任期の折り返し点を過ぎ3年目に入った。蔡政権は積極的に多方面で改革を進めているが,いずれも多方面から強い反発を招き政権運営は厳しさを増している。満意度は低迷し反転の兆しも見えない。中国の圧力はますます強まるが,台湾には反撃の手段はほとんどなく追い込まれる一方である。与党民進党への期待は失望に変わり,かといって野党国民党の復活に期待が集まる状況にもなく,台湾政治は閉塞感に覆われている。
本稿では蔡政権の満意度低迷の要因を,1)スタートダッシュの失敗,2)政権人事の問題,3)改革の政治的パフォーマンスの問題,4)蔡総統のリーダーシップの迷走,の4方面から改めて整理し,蔡政権が直面する緑陣営内部の矛盾も検討する。緑陣営ではいくつかの勢力が蔡政権に圧力をかけようとしている。台湾の政党も選挙民も自分が投げたブーメランにあたって閉塞状況に陥っている。
11月24日の統一地方選挙に向けて民進党の選挙情勢は厳しくなっている。だが,二大政党への失望が深まっているため,選挙結果はあいまいなものとなり,政治の閉塞感が続く可能性が高い。地方選挙が終わればすぐ2020年総統選挙の動きが始まる。中国は様々な形での介入のチャンスを伺っている。蔡政権には相当険しい道が待ち受けている。(2018年8月11日)
1.低迷する満意度
2016年5月にスタートした蔡英文政権は4年任期の折り返し点を通過したが,この2年は閉塞感が広がり重苦しさが増した2年であった。台湾の定番民意調査である蔡総統の満意度は,どの調査を見てもだいたい20数%から30数%の間で低迷している。これについてはすでに分析したので,拙稿「蔡英文政権論1」と「同3」を参照していただきたい。ここではTVBSの満意度調査を紹介するにとどめておく(図1)。
満意度低迷の原因を改めて整理すると,1)スタートダッシュの失敗,2)政権人事の問題,3)改革の政治的パフォーマンスの問題,そして4)蔡総統自身のリーダーシップの迷走,があげられる。
1)台湾の政治史において初めて「完全な民進党政権」が登場した時,選挙民は何かが変わると期待した。期待が大きいのはどの調査を見ても経済である。蔡英文も選挙中に若者の雇用条件・給与水準の引き上げなど経済に重点を置いて政見を語っていたし,台湾の産業構造の転換,バイオや医療や国防産業の育成など総合的な経済政策を打ち出していた。
だが,経済で短期間に成果を出すのは簡単ではない。長年の国民党体制の政策体系を根本的に変えようとしても実際には非常に難しい。そこで,「何かやってくれそうだ」という気にさせるパフォーマンスの必要性が出てくる。最初に強い印象を与えればとりあえず2年くらいはもつし,再選にもつながる。
蔡英文の幕僚は,日本の第一次と第二次の安倍政権の経験および「アベノミクス」の政治的効果を研究していた。しかし,蔡総統はそういった強力なパフォーマンスを伴うスターダッシュというものをやらず,政権人事も政策展開も漫然と前政権を引き継ぐ形でスタートした。
2)漫然と前政権を引き継いだ象徴が林全行政院長を中心とする「老藍男」と呼ばれる人事であった。林全自身は民進党系で蔡英文の信頼が厚い人物であるが,林全が選んだ閣僚に「年齢が高く国民党系で男性」が多かったのでこういう呼び方がされ,民進党支持者の失望の一因として取り上げられた。
この問題については,1年半年後の2017年9月に行政院長を林全から頼清徳に交代させ,2018年2月と7月には内閣改造を行ない,「老藍男」はだいたい淘汰され問題は解消した。「老藍男」人事は,蔡総統にとって政策の継続性と民進党の若手人材を副閣僚や政務官に配置して育成するねらいがあったのだが,評価する声はあまりに少なく,勢いをつけるべき最初の2年を無にする大変な代償を払った。「馬政権と同じことをやっていては蔡政権も同じ運命をたどる」という危機感が薄かった,ということになる。
蔡総統の満意度の動きを細かく追うと,2017年9月の頼清徳行政院長就任時と2018年2月の花蓮地震後に数値は上昇した。それは,人事の交代が好感されたことと,地震への緊急対応が評価されたためであった。しかし,その効果は一時的なものであった。最初に固まったイメージは簡単には変わらないのである。
3)蔡政権は2年間で非常に多くの改革を実現させた。これは民進党が立法院で過半数を握ったからこそできたのであり,陳水扁政権,馬英九政権と比べてもすでに多くのことを成し遂げている。そして,蔡政権が推進した政策も制度改革も,多くが選挙中に蔡英文・民進党が政見公約で語っていたことであった。
それでは,選挙で支持を得たのにそれを実行して満意度がこれほど低いのはどうしてであろうか。これは,蔡政権の問題と台湾の政治構造の問題,そして選挙民の問題が複合している。蔡政権は当初全民政府を標榜し,大きな改革については広く合意を得ようと低姿勢で公聴会や関係団体会議などを行なったのだが,これが改革の強力な推進を期待していた支持者には弱腰と移り,反対派にはかえって攻撃の目標を与えることになった。
大きな既得権益に切り込むには小泉政権流に反対派を抵抗勢力と決めつけ政治闘争を仕掛けるというのが一つの手段であるが,蔡英文はそれをしなかった。この点は,蔡英文の幕僚に直接聞いたことがあるが,「小泉の手法は知っているが蔡英文はそういう政治家ではない」というのが答えであった。
台湾の年金改革については,軍人・公務員・教員の退職者が極度に優遇され年金財政を圧迫している問題が歴代政権により放置されてきたので,改革の必要性は切迫していた。改革に対する民意の支持も半数以上あったが,退職公務員団体や退役軍人団体が「蔡政権は国家に貢献してきた公務員や軍人に汚名を着せている」と批判した。民進党は反撃したし,ネットでは退職者優遇の実態が取り上げられ,結局は政権がやらずとも「(退職者が)自分の欲のため改革に反対する」という抵抗勢力のイメージが拡散し,社会の亀裂は深まった。
反年金改革団体は,蔡政権の対応が弱いのをいいことに過激な反対活動を行ない,蔡政権の正当性を疑問視する風潮を作り出すことに成功した。反改革の抗議活動には中国との関係が深い団体・人士らも加わっている。年金財政の破綻を回避するため火中の栗を拾って過度の優遇を是正した政権が十分な支持を得られないのが台湾政治の現実である。
4)蔡英文のリーダーシップと政治的駆け引きの能力について,筆者の評価はまだ定まらない。2008-12年の蔡英文について,民進党を立て直した指導力は評価できるが,ぎりぎりの政治的駆け引きには弱いというのが筆者の見立てであった。それは2010年に蘇貞昌に出し抜かれた件,2012年の選挙戦で馬英九・金溥聰にうまくあしらわれた件がよく示している。
一方,2012年の敗北から2年の充電期間を経てカムバックしてきた蔡英文は政治家として成長し,したたかでズル賢さも備えていた。派閥が割拠する党内で強い指導力を確立し,「現状維持」路線にまとめ上げ,立法委員選挙の選挙戦略も巧みであったし,大小の駆け引きで決断力を見せ勝負に勝ってきた。この間,政策は林全,張景森,林錫耀ら,選挙は洪耀福,陳明文ら,対外関係は?釗燮,邱義仁ら,中台関係は詹志宏,傅棟成ら,政権獲得準備は劉建忻,陳俊麟,姚人多らに担当させ「チーム蔡」としてうまく機能させた。
ところが2016年1月の勝利後は,蔡英文の指導力が最も貫徹できる条件が整っていたにもかかわらず,それを活かしたスタートダッシュはなされず,リーダーシップの取り方も,弱かったり,強く出たり,躊躇したり,とブレが目立つようになった。「大きな問題で指導力を見せず,小さな問題で口を出す」という批判も聞こえてくるようになった。変則的週休二日制の問題では迷走し傷口を広げた。年金退職金制度改革では正直に行き過ぎて反対派に付け込まれた。ズル賢くいくなら,公務員・教員年金だけを先にやり軍人年金改革は2020年の後に回す方法もあった。
ただし,台湾メディアやネットでの蔡英文批判というのは批判のための批判が多い。政権発足当初,蔡英文は「リーダーシップが見えない」,「軟弱だ」と批判された。それが途中から立法院の過半数を使ってどんどん法律を通すようになると,今度は「異なる意見を聞かない」,「独断専行だ」と全く逆の視点で批判されるようになった。台湾の総統はどうやっても批判される宿命にあるのだが,問題はそうしたいいかげんな批判であっても影響されてしまう台湾の民意の脆さにある。
2.緑陣営内の矛盾
蔡総統の満意度低下は,もともと不支持の国民党支持者に加え党派性が薄い中間派が不満に転じたのが大きな要因であるが,そのプロセスは,台湾政治をより深く理解する視点を提供する。蔡政権は,野党陣営から攻撃されただけでなく,与党陣営の中で足を引っ張られた。蔡総統の満意度が早々と低下したのは緑陣営内で不満が広がった(蔡への不満を拡散させる人たちがいた)からである。
不満勢力は大きく分けると,1)独立派,2)陳水扁派,3)蔡英文主流派体制から外れている個別人士たち,そして,4)必ずしも緑陣営ではないが反国民党の側で戦ってきた社会運動グループである。
1)独立派は一つの組織にまとまっているのではなく,台湾独立を志して運動してきた様々な人たちの集合体であり,民進党員も非党員もいる。独立派は蔡の「現状維持」路線に不満で,いろいろな方法で揺さぶりをかけている。その一つは「東京オリンピックで台湾という名義で出場を目指す」という公民投票運動である。この公民投票が台湾で通過したからといって国際オリンピック委員会に台湾が「チャイニーズ・タイペイ」として参加している状況は変えようがなく,この公民投票の狙いは台湾ナショナリズムへの支持を集めることと蔡政権への揺さぶりである。
辜?敏らの年配の独立派は,思想的系譜がはっきりしない蔡英文にもともと不信感を抱いている。筋金入りの独立派と認められるのは権威主義体制時代に国民党と戦った経歴のある人たちで,蔡にはそれがない。さらには,独立派の中には民進党自体を「腐った政党」とみなし台湾ナショナリズムの政党に純化させることを望んでいる人もいる。蔡に勢いがあった時には辜?敏らの蔡批判は個別の声にすぎなかったが,蔡の満意度が下がるにつれてその存在感は増してきた。
独立派は概して台湾ナショナリズムと中国ナショナリズムの対決構造を望み,その対決に勝てると信じているので,中国の圧力が高まり蔡政権が効果的に反撃できない状況をある種のチャンスと見る人が少なくない。蔡の満意度が下がり政権基盤が揺らぐことで蔡政権は「現状維持」路線を転換せざるをえなくなるという考え方である。独立派は「喜樂島聯盟」という広汎な団体を結成し,来年2019年4月6日に台湾独立を問う公民投票を計画している。運動に弾みがつけば蔡は追い込まれ,独立派寄りに軸足を移さざるをえないかもしれない。
2)陳水扁はいまも民進党や緑陣営の伝統的支持者には一定の人気がある。陳水扁の狙いははっきりしている。それは大赦か特赦によって復権を果たすことである。しかし,この要求は無理があり,蔡英文は応じないであろう。陳水扁は懲役刑が確定した案件と刑事裁判の途中の案件があるが,病気治療が必要だとして刑の執行と法廷審理が停止された状態である。
陳水扁はいろいろな方法で蔡を揺さぶろうとしている。自宅での病気治療のため特例的に保釈されているのに,これ見よがしに政治集会に参加しようとする。また,フェイスブックで「陳水扁新勇哥物語」というアカウントを開設し,その登場人物「勇哥」が定期的に蔡政権の弱腰や不手際を揶揄している。
「陳水扁派」はいまや陳水扁の家族+周辺人物にすぎず,陳政権時代の「陳水扁派」のような大勢力ではない。その時の主要人物は政界から離れるか,蔡英文支持に回っている。ところが,陳水扁が馬政権時代に投獄されたことに対しては,民進党や緑陣営の伝統的な支持者の間で同情が強く,蔡英文は総統として復権の措置を取るべきだと考えている人が多い。
これらの支持者の中には「蔡総統が馬英九を捕まえないのが不満だ」という人もいる。筆者も直接そういう声を聞いた。それは筋違いな要求だが,つなげて考える人もいる。陳水扁の息子が運営している「一辺一国連線」は民進党や無党籍の地方議員を中心に80名近くが加わり存在感を示している。また,陳水扁派と独立派は人脈の重複がある。蔡総統は緑陣営内で高まる陳水扁特赦要求を何とか防いでいる状況にある。
3)党内の非主流人士が不満を募らせるのはどこの国の与党も同じで,解説はいらないであろう。誰がそうなのかについては言及を控えたい。県市長選挙で党の公認候補が決まっているのに出馬の動きをする人たち,緑陣営出身で盛んに蔡英文批判の評論を発表する人たちはこのカテゴリーが多い。
ベテラン党員の中には,党員歴が浅く党外運動・民主化運動にまったく加わったことがない蔡に対して複雑な感情を抱く人がいる。人脈的に独立派,陳水扁派と重なる人もいる。これらの人たちの期待するシナリオは,蔡の政権基盤が弱まり自分たちを頼りにせざるをえない状況が生じることである。それにより立法委員選挙出馬や第二次蔡政権でのポストなどに道が開ける展開である。場合によっては2020年に蔡を引きずり下ろしたいという期待もこの中には含まれている。
4)労働運動,環境保護運動,少数者権利擁護運動などの団体と政権与党の民進党との利害が対立するのは自然であるが,民進党は「公平正義」を掲げそれらの団体を擁護する姿勢を示して票を伸ばしてきたので,政権についたとたん対立するのは好ましくない。蔡政権側はできればそうした対立を避けたかったが,運動家団体は容赦しなかった。
変則的週休二日制の問題は国民党政権が放置してきた問題で,蔡政権は総労働時間の短縮と休日出勤の加算手当の明確化に動いたのに,労働団体は自分たちが求める完全週休二日制でなかったことと蔡政権が週休二日制の導入と引き換えに既存の祝日7日を取り消したため,総統府前で抗議のハンストを行ない激烈な蔡政権非難を続けた。
また,一部の環境保護団体は,蔡政権が脱原発を進めるための太陽光発電,風力発電の施設建設に反対,火力発電所の建設にも「環境が破壊される」,「大気汚染が悪化する」として反対,強硬な反対運動を進めている。少数者権利擁護運動では,同性婚を認める法改正を要求する団体,先住民の土地自然権の承認を要求する団体などの蔡政権批判も強烈である。蔡政権の先住民政策は国民党時代よりはるかに進歩的であるのに,一部の先住民権利擁護団体は「不十分だ」として総統府前で抗議の野営を続けた。
こうした諸団体が自分たちの理念に基づいて政権を批判するのは正当であるが,論争のある政策は背後に多数派があり,蔡英文が公約で語ったからといってすぐに実現できない政策もある。政策の議論と評価にはバランス感覚が必要である。蔡政権の立ち位置は国民党政権より諸運動団体の価値観に近い。一部運動団体の批判はバランスを欠いているが,あえていえば,運動団体はバランスなど考慮せずに主義・主張を展開するのが役目である。問題はやはり民意であろう。抗議行動が続けば政権の満意度が下がるようでは,着実に政策を展開することはできない。
1)2)3)4)の勢力は,馬政権時代は国民党批判で一致していたし,総統選挙ではおそらくは蔡英文に票を投じたハズであるが,蔡政権登場でそれぞれの立場・利害・思惑の違いが顕在化し,公然とあるいは隠然と蔡政権・民進党批判を続け,民意にネガティブな影響を及ぼしたと考えられる。蔡政権の側にそれを跳ね返すだけの政治力が欠けていたのも事実でありそれが閉塞感の要因になるのだが,そこには台湾政治の複雑な構造が垣間見える。
3.厳しくなった選挙情勢
筆者は,今年の初め地方選挙情勢の初歩的分析をした時,民進党の選挙情勢はある程度楽観視できると見ていた(拙稿「2018年台湾統一地方選挙−序盤情勢−」参照)。確かに蔡政権の満意度の低迷が選挙に影響する可能性はあったが,各県市の民進党候補は一定の基盤を有し「まあまあ」の情勢であった。
年初の情勢評価は次のようなものであった。「民進党は六都のうち現有の四都の保持は確実であるし,嘉義県や雲林県といった民進党の票田で発生していた内部問題も処理ができた。不利といわれている嘉義市や澎湖県でも国民党が分裂し複数候補が出馬することになり民進党現職の再選の可能性が見えてきた。負けるとしても宜蘭県だけである。4年前は民進党の大勝利,国民党の歴史的大敗であるから,今回の結果が前回とあまり変わらなければ民進党の勝利である。」
ところが,台北市長選挙の布石がこの大局を変えてしまった。民進党は現職の柯文哲に対抗して独自候補の姚文智(立法委員)を擁立した。これは,実際の政治的効果としては中間選挙民に「NO」ということに等しい。2014年選挙で柯文哲を支持し中間選挙民に歩み寄った態度からまったく変わってしまった。
これは,民進党の非常に決定的な選択であり,非常に不聡明な策である。民進党が候補者を出したことで,柯文哲の「藍緑のどちらでもない第三勢力」という立場を際立たせ,柯文哲を助けることになった。それだけでなく,姚文智が柯文哲と票の奪い合いをすれば国民党の丁守中が当選するので,それを避けるためには民進党の支持者は当選の可能性が低い姚を棄てて可能性が高い柯に入れるしかなくなる。この戦略的投票により,台北市での民進党の得票数は惨めなほど低くなる。
台北市の選挙戦は台湾全体の注目の的であるので,姚文智の低迷する選挙情勢は他県市の民進党の選挙情勢にマイナスの影響を及ぼすであろう。2014年は民進党が柯文哲ブームに乗って台北市以外でもその恩恵を受けたのだが,それが逆回転する。民進党の選挙情勢は厳しくなっている。
蔡英文主席や洪耀福秘書長,選挙対策委員会の陳明文召集人らは柯文哲を再度推薦し独自候補は立てない選挙戦略を描いていた。それは,民進党に不利になることを十分認識していたからである。では,なぜ独自候補を擁立したかというと,柯文哲を嫌う民進党支持者が非常に多く,柯に対抗馬を立てるべきだという基層の圧力に抗し切れなくなったからである。柯市長は意図的に蔡政権と距離を置いたり中国との交流に積極姿勢を見せたりして中間派にアピールしていたが,民進党支持者にはそれが許せなかったのである。
民進党支持者が柯に不満を抱き独自候補擁立を望む声がかなり広がっていたのは事実である。民進党支持者は「気に入らない」という感情が非常に大きな原動力であり,それで国民党と戦ってきた。だが,がまんできないというのは時として駆け引きの弱さにつながる。この件では,民進党支持者は後になって後悔するであろう。
党執行部が抗し切れないほどの圧力の高まりとなった背後には,前節で指摘した1)2)3)の人士たちが支持者を煽った側面もある。党執行部が柯文哲に譲ろうとしている時,1)2)3)一部の人は「党の魂を売り渡してはならない」と大声で批判した。そして選挙後には,台北市で惨敗した責任追及の声をあげるであろう。蔡主席には打撃となり,選挙担当幹部は辞任に追い込まれる。
民進党への風向きが厳しくなったから国民党に追い風が吹いているのかというとそうでもない。政党支持率・政党好感度の調査を見ると,民進党の数値は2016年の蔡政権発足時がピークで,そこからじりじり下がってきた。国民党の数値は多少回復してきているが,民進党に取って代わるには至っていない。
「台湾民意基金会」(注) が7月15日に発表した政党支持の民意調査によると,民進党を支持(認同)する人25.2%,国民党を支持(認同)する人20.7%,中立49.6%,わからない/回答しない4.5%であった(図2)。
台湾の選挙民の二大政党に対する不満は明確になり,潜在的に第三勢力の台頭への期待は高まっている。しかし,藍緑以外の選択肢があるのは柯文哲がいる台北市だけである。他の県市で柯と連携できそうなのは,いまのところ新竹県で県長選挙に出馬している徐欣瑩(民国党)しかいない。これでは台湾全体でブームを作り出すことは難しい。
したがって,現在の台湾政治の基本構造は,選挙民の多数は二大政党に不満であるが,支持を変える政党が見つからず,自称「中立」が増えているという状況である。では,このような二大政党に不満の選挙民は台北市以外ではどのような投票行動をとるのであろうか。結局,棄権するか,しかたなく投票するかの,どちらかしかない。これでは閉塞感に覆われるのも無理はない。
地方選挙の見通しについては,「2018年台湾統一地方選挙−中盤情勢−」として近いうちに発表したい。柯文哲が総統選挙に出馬するかどうかについても改めて議論したい。
4.閉塞感 ― 台湾式政界ブーメラン
現代の民主政治は世論調査政治になっている。毎週のように発表される各種の調査で支持率が下がれば,選挙を待たずして政権は追い込まれていく。ネットの発達で政治の時間軸はより短くなり,ネット上の短期的なアクセス殺到と炎上によって政局が影響されることも少なくない。民主主義体制の内部が混乱し閉塞感に覆われる。このような状況をほくそ笑んで見ているのは新たな権威主義体制の諸国家であろう。
蔡政権の場合,常に小さな失策があり,その中で人の興味を引くものがネット上で大きな話題に発展し,野党が政治的に利用するというサイクルができている。これは馬英九時代とまったく同じである。馬政権の時は,民進党がそのサイクルで大きな政治的利益を上げてきた。民進党は馬政権の政策をことごとく(時には非理性的・非科学的議論を使って)否定してきた。それがブーメランとなって戻ってきている。国民党も同じである。
蔡政権の苦境は,台湾の政党政治の根本的矛盾に起因する。台湾政治はイデオロギー的には,台湾ナショナリズムと中国ナショナリズムとその中間にゆるやかな「台湾アイデンティティ」という3つの立場があるが,主要政党は2つでそれぞれナショナリズムを基盤にしている。台湾の内外の政治経済構造からして台湾の政権は中間路線でいくしかない。そして選挙では「台湾アイデンティティ」の票を多く取り込んだ方が勝利する。
問題は「台湾アイデンティティ」の支持者は2つのナショナリズムの支持者に比べて政治への熱意と関与が弱いことである。政権が中間路線を続けようとして十分な政治的推進力を得られない。このため,陳政権も馬政権も立ち往生し,いままた蔡政権も同じ境遇に置かれている。
結局のところ台湾の政権がやれることは政治的経済的に限られているにもかかわらず,台湾では政治に対する期待が高い。背景には,民主化を自分たちで成し遂げたというプラスの意識と,上が何とかしてくれるという伝統的な家父長制的国家観がある。
選挙民は非現実的な期待を抱いて投票し,なおかつ,こらえ性がない。政策の効果を評価するには4年は必要だし,少なくとも2年は観察しなければどうにもならない。だが,台湾の選挙民は3か月でさっさと不満を高めてしまう。これではまともな政治は育たないであろう。台湾政治を覆う閉塞感は,選挙民が自分で投げたブーメランに当たっているということもできる。
台湾社会は「小さくても確かな幸せ(小確幸)」という概念を流行させた。これは政治経済社会の急速で大きな変化の中を生きてきた人々の知恵がつまっている。個人が社会の中で居場所・役割を見つけ他の人と穏やかに暮らしていくという価値観は,とにかくものすごい競争の中で生きている大陸中国人の価値観と対照的である。そのおおらかな知恵が政治においては活かされていない。
台湾が大国化した中国の統一圧力に対抗できるのはソフト・パワーしかない。しかし,台湾が誇るべき民主政治は閉塞感に覆われている。蔡政権がそれを打開していけるのかというと,かなり重苦しい状況にある。蔡政権の満意度低迷について,今回は緑陣営内部の矛盾と選挙民の矛盾に焦点を合わせたが,中国による揺さぶりの影響もある。これについては中国の対台湾政策と合わせ改めて検討したい。(2018年8月11日)