蔡焜霖先生告別式の様子と先生の遺されたメッセージ  王 明理(台湾独立建国聯盟委員長代行)

【台湾の声:2023年9月25日】

 9月3日に他界された蔡焜霖先生の告別式が昨24日午前7時50分から台北市内の第二殯儀館で行われた。その様子を三宅教子さんから知らせて頂いた。(三宅さんは蔡焜霖先生の兄上蔡焜燦先生と共に、長年に亘り台湾歌壇の為に尽力されてきた方)

 ささやかな音楽葬で送りたいという御家族の意向であったが、先生のお人柄を慕って、各団体、大学関係者、人権問題関係者など何百人という人が詰めかけ、外で待つ人も多かったそうである。泉裕泰大使(台湾交流協会台北事務所長)も参列されたという。

 御家族がお花を捧げた後、奥様の選んだ歌5曲『大きな古時計』『帰れソレントへ』『千の風になって』他英語の歌2曲を参列者全員が声を揃えて合唱した。

 あんなにも偉大な方なのに常に謙虚だった焜霖先生にふさわしい小さな、けれど決して小さくない心のこもった告別式だったそうである。

 突然の他界だったので、遺言は残されていないけれど、今年の6月に蔡焜霖先生から頂いたメールがある。個人的なものではあるが、そこにはあとに残された私たちへの先生からのメッセージのようなものが溢れているので、皆様に読んで頂きたく公開することにしました。

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明理さま

 御母堂がお亡くなりになられてから早くも3か月に満ちようとしています。この間明理さまとお母さまとの間の、世界のどの様な親子の関係よりも波乱と苦難に満ちた生涯を、強い愛のきずなで結ばれた一生の最後のお別れに、私は只々茫然とし、とうとうこんなにも長くご無沙汰いたしましたこと何卒お許しください。

 一方自分も平均寿命を大きくオーバーした老齢には勝てず、今は杖ついて歩くのにも苦痛を覚え、背も曲がって普段は真っすぐ立つのも難しい状態です。本当はすべての仕事から身を引いて悠々自適を決め込むのが正常なのですが、時恰も中国の国民党と共産党とが手を結び、台湾を一飲みにしようとしている大変な時代に背を向けて知らんふりする訳にもいかずやきもきしている現状です。

 何をすれば良いのか、自分に何ができるのかを問い続けながらも、机に向かえばパソコン叩きながら頻繁に居眠りし、ベッドを見ると直ぐ横になりたがり、スマホで目覚ましかけても起きれないこと屡々で、こんな自分が嫌になる昨今です。

 折角明理さまをお慰めとお励まししなければと思いながら、結局は老人の愚痴に終わってしまいそうな手紙になりましたが、それでもここ数か月はグラフィック・ノベル≪来自清水的孩子≫が日本では岩波書店から《台湾の少年》の書名で出版されたことから、日本のメディアや大学の先生から取材を申し込まれ、毎度真剣に対応してきました。

 そこで日本からの来客の方々に口を酸っぱくして申し上げているのは、台湾の白色テロはいまだに収束していないばかりか、今度は中国大陸からの赤色テロと結びついて台湾併呑を企んでいることであり、第2次世界大戦の終焉から今まで八十年近くも手取り合って戦ってきた台湾人の仲間たちは今こそ決戦の時と覚悟を定め、老耄の私も最後のご奉公とかけ参じる覚悟です。

 お陰様で《台湾の少年》は今や日本語版の他に、フランス語、ドイツ語、アラビア語などの版が出版されてあり、今年秋には英語版と韓国語版の出版が予定されております。身の丈2メートル近くのエジプトの出版社の社長がアラビア語版全4冊を抱えて自宅まで持ってきてくれたのにはびっくりしましたが、それはかつて蒋政権下で世界の孤児と見放された台湾が、今や自分の努力で自由民主を勝ち取り、世界の寵児に浮上した歴史を世界の人々が認識し始めたことを物語るものではなかろうかと思うのです。

 夜も更けて深夜になりましたので、どうかお休みなさっていられる明理さまをお騒がせすることがないようにと祈りつつ、心からの敬愛とご慰問の言葉とを申し上げました。梅雨が明ければ直ぐそこには暑い夏が待ち構えてあり、くれぐれもお体ご大事になさられますよう、ご家族の皆様のご健康とご多幸とをひたすらお祈り申し上げます。

 蔡焜霖 啓上

※この記事はメルマガ「日台共栄」のバックナンバーです。


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