*原文は本会HPに掲載しています。 http://www.ritouki.jp/index.php/magazine/magazine042/
*本誌掲載に当たっては、漢数字を算用数字に直していることをお断りします。
山口県下松市「文学碑プロムナード」で12月1日に除幕式
◆米泉湖を巡る台湾との交流
台湾総督を兼帯し、日露戦争において満洲軍総参謀長として勝利に貢献した児玉源太郎の出身地、山口県徳山市の旧宅跡には、その徳を偲ぶ地元有志の発起によって江ノ島児玉神社の社殿を移築して創祀された児玉神社がある。
徳山駅から青々とした楠並木に覆われた六車線の大通りを児玉神社方面へ歩いていると、ふとここは台北市のかつての台湾神宮(現圓山飯店)に向かう勅使街道(現中山北路)かはたまた敦化北路かと錯覚を覚え、台北に赴任後、蔡焜燦(さい・こんさん)先生に会えることを楽しみに台湾歌壇月例会に通い続けた約3年の日々を懐かしく思い起こしていた。
徳山駅のある周南市(しゅうなんし)の東に隣接するのが下松市(くだまつし)で、平成3年竣工の末武川(すえたけがわ)ダムのダム湖である米泉湖(べいせんこ)に文学碑プロムナードがある。ここに、徳山の歌人河内信子(こうち・のぶこ)さんが亡くなる4年前の平成7年、80歳のときに、台北歌壇創立者の孤蓬万里(こほう・ばんり)こと呉建堂(ご・けんどう)氏の歌碑を建立する。これが米泉湖を巡る台湾との交流の始まりである。
台湾と日本の睦みここにきて祈りしがあり平成の代に 孤蓬万里
台北歌壇の作品をまとめた、孤蓬万里編著『台湾万葉集』の上巻(原題『花をこぼして』1981年刊)、中巻(1988年刊)、下巻(1993年刊)のうち、大岡信(おおおか・まこと)氏が初めて下巻を手にしてその存在を知り、新聞の連載コラム「折々のうた」で絶賛して話題となったのは平成5年(1993年)、折しも米泉湖の文学碑プロムナード設置が始まった年であった。
その後、元台湾少年工で、台湾歌壇会員だった洪坤山(こう・こんざん)氏の短歌に感動した作家の阿川弘之氏が「文藝春秋」の随筆「葭(よし)の髄(ずい)から」で「心の祖国」と題して洪氏のその短歌を紹介している。
北に対(む)き年の始めの祈りなり心の祖国に栄えあれかし 洪 坤山
◆蔡先生と加藤さとる氏の交流
すると、山口県下関市在住のジャズミュージシャンで作曲家の加藤さとる氏がこの一文に感銘を受けて作曲、病床の洪氏を台湾まで見舞って演奏した。加藤氏はさらに、洪氏が2004年に亡くなると、蔡焜燦先生に請われて台北の国賓大飯店で音楽葬を行い、2年後と6年後には洪氏の顕彰碑を米泉湖の文学プロムナードに建立している。
台湾歌壇50周年祝賀会を見届けたかのように、その3ヵ月後の昨年7月17日に旅立たれた蔡先生は、加藤氏に「『島原の子守歌』であの世へ送ってほしい」とお願いしていたという。加藤氏は、昨年9月23日に催された台湾歌壇主催の「蔡焜燦先生を偲ぶ会」にこの歌のCDを届け、会場には葬送曲のように静かに流れていた。
今回、加藤氏が発起人となり、蔡焜燦先生顕彰碑を建立することになったのは、こうした経緯による。
蔡先生の顕彰碑には、「祖国」という言葉で私たちを啓発してくれている次の歌を選んだ。
同胞よ祖国を護るこの心起ちて示せよ世界の国に 蔡 焜燦
◆顕彰碑には三宅教子さんの歌も
台湾歌壇の事務局長を務められた三宅教子(みやけ・のりこ)さんは、月刊「Hanada」9月号特集「『老台北』一周忌に寄せて」に「蔡焜燦先生の『日本精神(リップンチェンシン)』」と題して寄稿し、その結びに次の歌を添えている。
台湾の日本精神教へたまふ君がみ心継ぎて歩まむ 三宅教子
追悼集にも載るこの歌は、加藤氏の「リップンチェンシン(日本精神)の歌」という曲の歌詞にもなっている。
長年、事務局長として台湾歌壇代表の蔡先生を献身的に支え続けて来た三宅さんの労に報い、蔡先生の歌の傍にこの歌を加えることにした。
顕彰碑除幕式は、12月1日午後1時から米泉湖で開催する。京都美山(みやま)の紅葉を愛し続けた蔡焜燦先生を思い、紅葉の時期に設定している。
この日は、加藤さとる&浜崎むつみバンドによる「リップンチェンシン(日本精神)の歌」が米泉湖に響き渡ることだろう。台湾歌壇例会で篠笛を披露したことのある横笛演奏家の大野利可(おおの・りか)氏との共演も楽しみである。
7月の西日本豪雨では周南市や下松市も被災地となり、米泉湖の周回路も崩落しているというが、紅葉の季節までには復旧し、この除幕式が地元の方々の励みになることを期したい。
また、周南市にある徳山大学は台北の中国文化大学と1997年に姉妹校を結んでいる。蔡焜燦先生の顕彰碑建立がこのような台湾との交流関係を継続し、次世代に向けて発展させてゆく一助になるならと思い、徳山大学にも参加を呼び掛けてみるつもりである。