私の奥の細道 李登輝(1)7年越しの「夢」−ようやく叶った「東京再訪」

6月9日、皇太子殿下ご成婚記念日の佳日、李登輝前総統は総統退任後、3度目となる日
本訪問の旅「学術・文化交流と『奥の細道』探訪の旅」を終えて帰台された。

 桃園国際空港に着いた李登輝前総統は、同行者でも立っているのが辛いほどの疲れが
溜まっているにもかかわらず、立ちっぱなしで訪日報告をされた。記者の質問も長く、1
時間をまわってやっと終了した。しかし、声の迫力は衰えることはなかった。

 本日から李前総統の全行程に同行取材した産経新聞の長谷川周人・台北支局長が、李
氏が発信したメッセージは何だったかを探るべく「私の奥の細道 李登輝」と題するレ
ポートを同紙に連載し始めた。下記にご紹介したい。

 ちなみに、「私の奥の細道」というタイトルは、李前総統が今回の旅の目的について
「芭蕉の『奥の細道』を歩いて、日本文化とはなにかを、『私の奥の細道』と題して世
界に紹介したい」と発言されたことに由来している。

                  (メールマガジン「日台共栄」編集長 柚原正敬)


私の奥の細道 李登輝(1)7年越しの「夢」−ようやく叶った「東京再訪」
【6月12日 産経新聞】

 中華航空100便は成田国際空港への着陸体勢に入っていた。先頭座席「1A」の窓から、
ひとりの老人が眼下に広がる房総半島を食い入るように眺めている。台湾の李登輝前総
統(84)。東京再訪は22年ぶりだった。

「東京大空襲があった1945年3月10日、私は稲毛(千葉市稲毛区)の陸軍高射学校にいた。
日本の幹部候補生は高射砲の操作すらできない。この日ばかりは実戦経験を持つわれわれ
(台湾出身者)の天下だった」

 李氏は当時を振り返って、「空襲の翌日はいわゆる『戦場処理』をやった。死体を運
び、焼け野原となった町を整理した」とも語った。

 そして、この体験が生かされたのは半世紀後の台湾中部大地震。死傷者が1万人を超
す99年9月の大災害で、現職総統として迅速な初動対応ができたのは、陸軍少尉として東
京大空襲で得た経験があったからだという。

 「当時は給料が悪く食う物もない。20歳前後でしょ。腹が減るんだよ。こそこそと外
に出ては落花生やメシを買った。そう、敗戦から昭和21年までは焼け野原となった新橋
(港区)にぽつんと建つ一軒家に住んだ。思い出がいろいろあるなあ」

 「22歳まで日本人だった」李氏にとって、東京一帯は若き日の記憶がいっぱい詰まっ
た所だ。そこへの再訪は、厚い政治の壁に阻まれ続けた。そして、やっと実現した。

 日本招請の立役者、国際教養大学(秋田市)の中嶋嶺雄学長は「当たり前のことを当
たり前にできる第一歩だ」と評価する。

 投宿先はホテルオークラ(港区)。副総統だった22年前の1985年、李氏が中嶋学長と
初めて出会った場所だという。李氏が敬愛する「台湾紀行」の著者、故司馬遼太郎の定
宿でもあり、警備上の観点からも、当然の選択だったといえる。

 李氏は深川(江東区)にある芭蕉記念館から、松尾芭蕉の「奥の細道」をたどる今回
の旅の一歩を踏み出した。振り返れば、李氏が公に「奥の細道」を口にしたのは、病気
治療のため総統退任後としては初めて来日した2001年、滞在先の大阪での散歩途中だっ
た。

 中国は、李氏を「独立派の頭目」と見なし、訪日問題で日本に圧力をかけている。「奥
の細道」発言に、それをかわす計算が込められていたとすれば、李氏は7年越しで狙い
通り東京立ち寄りの「夢」を果たしたことになる。李氏はそんな積年の思いを、訪れた
深川で披露した俳句に託した。

「深川に 芭蕉慕ひ来 夏の夢」

                    ◇ ◇ ◇

 台湾の李前総統が5月30日から11日間、「奥の細道」ゆかりの地を探訪するなどのた
め、退任後3度目の訪日をした。より自由な発言が認められた今回の滞在で、李氏が発
信したメッセージは何だったか。同行し間近で見た「人間・李登輝」を取材メモから報
告する。(長谷川周人)



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