1895年(明治28年)4月に結ばれた下関条約によって台湾が清国から日本に割譲され、日本は台湾を統治しはじめましたが、統治間もなくの台湾はまだまだ政情が不安定で、日本人を敵視する匪賊も少なくありませんでした。
台北郊外の士林に「芝山巌(しざんがん)学堂」という最初の学校が開かれ、教師たちは身魂をなげうって台湾人子弟の教育に当たっていました。周辺住民は教師たちに再三退避を勧めましたが「身に寸鉄を帯びずして群中に入らねば、教育の仕事はできない」として学堂を離れませんでした。
翌1986年1月1日、6人の教師が台湾総督府における新年拝賀式に出席するため芝山巌を下山しようとしたとき、100人ほどの匪賊に取り囲まれてしまいました。6人は教育者として諄々と道理を説きますが、匪賊たちは槍などで襲いかかり、衆寡敵せず全員が惨殺されてしまいます。これが「芝山巌事件」です。
この非命に斃れた6人は、楫取(かとり)道明(山口県)、関口長太郎(愛知県)、桂金太郎(東京府)、中島長吉(群馬県)、井原順之助(山口県)、平井数馬(熊本県)であり、後に「六士先生」や「六氏先生」と尊称され、1898年秋、靖國神社に合祀されています。
平井数馬命の出身地の熊本では、台湾教育に努めた教師たちの「熊本芝山巌会」によって、熊本市立田山麓の小峯墓地にある平井家墓地に顕彰碑が建てられ、戦前は2月1日に台湾芝山巌神社で斎行されていた祭典にちなみ、平井数馬命を慰霊顕彰する「英魂祭」が挙行されてきました。
2009年9月には、ご遺族の平井眞理子さんのご案内により、熊本を訪問された台湾の李登輝元総統が墓参を果たされ、その偉功を讃えられました。
そこで、地元の有志が「熊本芝山巌会」の遺志を引き継ぐ形で2015年に「平井数馬先生顕彰会」(白濱裕会長)を設立し、その年の2月1日に墓前祭を行って慰霊顕彰を再興しました。
今年も去る2月1日に小峯墓地にて慰霊顕彰の墓前祭を執り行い、ご遺族の平井幸治氏も参列されたそうです。その模様を地元のテレビくまもと(TKU)が伝えていますので、下記に平井数馬命の略歴とともにご紹介します。
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平井数馬(ひらい・かずま) 享年17歳 熊本県出身明治11年(1878年)7月26日、平井新平の四男として熊本県益城郡松橋町(宇城市)に生まれる。手取小学校高等科を終えて中学済々黌に入学。明治28年1月、中国語の通訳を志望して九州学院支那語科に入学して6月に修了。通訳を志願するも年少のため不可。同年8月、台湾総督府の学務部員として舎監を務める一方、「語学の才能に非凡なものがあったと感じさせる」(篠原正巳氏)と高評の『軍隊憲兵用台湾語』を著す。お墓と「芝山巌殉国之士平井数馬先生之碑」は熊本市内の小峰墓地。
—————————————————————————————–台湾の近代教育の礎を築いた「六氏先生」平井数馬 慰霊祭で遺徳しのぶ【テレビくまもと(TKU):2023年2月27日】映像:https://www.tku.co.jp/news/?news_id=20230227-00000003
かつて日本が統治していた台湾で教育にあたった平井数馬の慰霊祭が先日、熊本市で行なわれました。
明治時代、日清戦争ののち、台湾を統治することになった日本は教育制度の確立のため、6人の教師を派遣、台北に初めての学校を開きました。
その一人平井数馬、当時17歳は現在の宇城市松橋町出身の、済々黌で学んだ秀才でした。
1896年、明治29年の元日、6人は、日本の統治に反対するいわゆる、抗日ゲリラに襲われ、全員、命を落としました。
2月1日の慰霊祭では顕彰会のメンバーや遺族が平井 数馬の遺徳をしのびました。
亡くなった6人の教師たちは台湾の近代教育の先駆者として今も尊敬を集めているといいます。
【平井数馬先生顕彰会 白濱 裕 会長】「TSMCの進出で台湾に関心が出てきて、熊本と台湾の関係も歴史的にたどってみるともっと友好が深まるきっかけになると思います」
顕彰会は平井数馬の功績を広く知ってもらうため今後、書籍を出版したいとしています。
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