お伝えしたが、喜久四郎(きく・しろう)東京台湾の会会長も「瑞宝双光章」を受章され
ており、去る6月14日、関係者30名ほどが都内のホテルで叙勲祝賀会を開催した。
喜久氏は長年、教頭や校長として教職にあり、その功績により受章されたものの、それ
を知った台湾関係者祝賀会を開いた。会場には東京台湾の会の理事をはじめ台湾関係者や
映画「トロッコ」の川口浩史監督なども見えており、和気あいあいの雰囲気のなか受章を
祝した。
「台湾新聞ブログ」が関係写真をたくさん掲載して祝賀会の模様を報じている。下記に
ご紹介したい。
湾生の魂を顕彰 「東京台湾の会」喜久四郎会長の叙勲を祝う会が開かれる
【台湾新聞ブログ:2013年6月15日】
http://blog.taiwannews.jp/?p=13439
*ブログでは安倍晋三総理からの賞状や勲章など祝賀会関連写真を多数掲載。
東京台湾の会有志が発起人となって、6月14日、都内ホテルで喜久四郎(きく・しろう)
叙勲祝賀会が開催された(※1)。参加者全員の記念写真撮影後、開会。
呉正男(ご・まさお)さんが発起人代表として祝賀会開催の経緯を説明し、「素晴らし
い準備をしてくれた担当者に感謝します。(会長の意志にそって身内だけの)ささやかな
祝賀会が実現できたことを嬉しく思います」と述べた。
来賓祝辞として台湾協会齋藤毅(さいとう・つよし)理事長が挨拶した。齋藤氏は、喜
久氏の叙勲を祝いながら、長年の教員生活に敬意を払いながら、「実は、私は昭和19年
(1944年)に喜久四郎会長(※2)と同じ台北師範学校に入学しました。同年、喜久会長は
すでに国民学校に赴任しており、もう1、2年早く生まれていれば喜久会長の謦咳(けいが
い)に接することができました」と悔しがった。
この後、サプライズがあった。喜久会長の母校である現・国立台北教育大学の張新仁校
長から祝辞と記念品が贈呈され、来日できない張校長に代り、元台北師範学校芳蘭会(同
窓会)事務局長の荘樹春氏がこの大役を担った。
続いて喜久会長の経歴を山下越子(やました・えつこ)理事が紹介。これを受けて喜久
会長は、子供時代、標高2000メートルの山で生活し、理科の授業でトロッコに乗って下山
し、1日がかりで仏桑華(ハイビスカス)を観察したことなどを紹介するとともに「(終戦
で)初めて日本の土を踏んだ時は私には異国(情緒)でした」と振り返った。
東京台湾の会の松澤寛文(まつざわ・ひろぶみ)理事より、お祝いの贈呈、祝電披露が
行われた後、同会三宅教雄(みやけ・のりお)顧問が乾杯の音頭を取った。和やかな歓談
のなかで、元交流協会高雄事務所長喜田修(きだ・おさむ)氏、台湾物産館藤田克己(ふ
じた・かつみ)社長(池栄青果株式会社社長)、日本李登輝友の会柚原正敬(ゆはら・ま
さたか)事務局長がそれぞれ心温まるスピーチを行った。
余興としてバリトン歌手古川精一(ふるかわ・せいいち)さんが「仰げば尊し」、「ベ
ートーヴェン合唱曲『歓喜の歌』(交響曲第九番・第4楽章)を熱唱した。この後も台湾協
会根井洌(ねい・きよし)常務理事、不破光一(ふわ・こういち)氏(明石会)などスピ
ーチが続き、終盤には喜久会長の子息、喜久豊(きく・ゆたか)氏が挨拶、さらに喜久会
長が「台湾行進曲」を歌い、会場は大きな拍手に包まれた。
中締めの挨拶は、中島欽一(なかじま・きんいち)元理事、閉会の挨拶は、多井昭憲
(たい・しょうけん)事務局長が行った。
※1=喜久四郎氏は岐阜県下呂市教委の推薦により、今春の叙勲者に選ばれ、「瑞宝双光
章」を受章された。
※2=喜久四郎氏は、台湾原住民地区の警察官の5男として、1925年(大正14年)2月に生
まれ、1932年(昭和7年)4月、太平山の日台共学の小学校に入学、寄宿舎生活。高等
科卒業後、台北第二師範学校(後に台北師範学校を経て、現国立台北教育大学)に進
学(入寮)。1944年(昭和19年)日本人移民地区花蓮港区吉野村吉野国民学校に赴
任。1944年9月、歩兵隊第304連隊に入隊、10月に台湾沖航空戦でアメリカ・グラマン
との応戦に参加。1945年8月、嘉義で終戦。1946年3月、基隆より引き揚げ船に乗り、
広島に上陸。本籍のある鹿児島県奄美大島に向かうも占領下にあり、親戚を頼り岐阜
県に。1947年(昭和22年)よりへき地を中心に教員生活に入る。群馬県前橋で2年、以
後、1949年(昭和24年〜1985年(昭和60年)まで岐阜県で教職を務めた。