1972年に台湾の中華民国と日本が断交して以降の日台関係について、駐日台湾大使に相当する台北駐日経済文化代表処代表を務め、また務めている人物を通して描き出している。
中国ウォッチャーと言われる評論家の宮崎正弘氏は、実は台湾にも造詣が深い。その渡航歴は100回にも及び、断交時の林金茎代表、民進党政権下の羅福全代表、そして現在の謝長挺代表とも親しく、本書を私的エピソードを交えながらメルマガ「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」で紹介している。
なお、『日台関係を繋いだ台湾の人びと』と『日台関係を繋いだ台湾の人びと2』は、日台関係を理解するうえでとても有益な内容であることから、両書を本会の取扱い図書とし、年明け早々にご案内する予定だ。
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浅野和生(あさの・かずお)昭和34年(1959年)、東京都生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、同大学大学院博士課程修了。関東学園大学講師、同大助教授、平成国際大学助教授などを経て、2004年、平成国際大学教授に就任。法学博士。同大学大学院法学研究科長。2005年10月、日本版・台湾関係法の私案として「日台関係基本法」を発表。日台関係研究会事務局長、日本李登輝友の会常務理事、日本選挙学会理事、日本法政学会会理事。日米台関係研究所理事。主な著書・共著に『大正デモクラシーと陸軍』『君は台湾のたくましさを知っているか』『日米同盟と台湾』『馬英九政権の台湾と東アジア』『台湾の歴史と日台関係』など。編著に『日台関係と日中関係』『台湾民主化のかたち―李登輝総統から馬英九総統まで』『親台論─日本と台湾を結ぶ心の絆』『中華民国の台湾化と中国』『1895-1945 日本統治下の台湾』『民進党三十年と蔡英文政権』『日台関係を繋いだ台湾の人びと(1・2)』など多数。
————————————————————————————-「台湾は危ない」「反日運動が渦巻いている」と日本のメディアが騒いだが日本人と台湾人の友誼と交流は、断交後も拡大してきた
浅野和生編著『日台関係を繋いだ台湾の人びと2』(展転社)【宮崎正弘の国際ニュース・早読み:平成30年(2018年)12月26日(通巻5929号)】
日華断交から幾とせゾ。流れゆく歳月の速きこと。しかし外交関係は断絶しても、民間交流はむしろ活発化しており、日本と台湾との姉妹都市関係の絆は増え続けた。
相互訪問、とくに高校の修学旅行先に台湾を選ぶ学校が急増していることは注目してよいだろう。
その後の日台間系の新しいかたちの構築に多くの人々が尽力したが、本書では三人の『大使』(台北経済文化代表処代表)に焦点を絞り込む。林金茎、羅福全、そして現在の謝長挺の三氏である。
評者(宮崎)自身、台湾との断交に憤慨して直後に台湾へ行った。羽田発0925の日航機は乗客がわずか17名しかいなかったことを昨日のことのように思い出す(1972年師走だった)。
「台湾は危ない」、「反日運動が渦巻いている」、『日本人とみたら殴られる』などとメディアが書いた所為だった。ところが行く先々で歓迎され、「こんなときによく来てくれました。わたしたちは『田中外交糾弾、日華人民連帯』なのです」と言われた。以後、台湾渡航百回。島内の隅々から金門、馬祖にも行っている。
断交一年目には自民党議員団およそ百名がJALをチャーターして友好親善のために訪台したおり、随行記者団の幹事長を仰せつかったこともあった。
というわけで、むろん本書に論じられる三名とは親しくおつきあいをさせていただいたが、林金茎さんは法律学者、法学博士でいかめしいお顔なのに、いつもユーモアを絶やさず、即妙のジョークを飛ばす人だった。
「台湾は独立する必要がないのです。なぜなら中華人民共和国が中華民国から勝手に独立したのですから」と言われ、法学的解釈から言えば確かにそうだとおもったり。
羅福全代表時代の項目では、李登輝閣下訪日の下工作の秘話がたんたんと述べられているが、当時最大の理解者は森嘉郎首相であり、また説得に最も力点を置いたのが福田康夫氏だったことも本書で改めて確認できた。
羅福全氏はたびたび本国議会に呼び出され国民党議員から意地悪な質問をされたりしたが、いまも評者が思い出すのは「或る事件」のことである。
おりしも小林よしのり氏が書いた『台湾論』が台湾で焚書坑儒の憂き目にあって、本が高く積み上げられて焼かれた。小林氏は台湾から入国拒否とされた。
中華思想を奉じる過激派の仕業だが、直後に西尾幹二氏と訪台する予定だった。その前夜に羅大使から二人して呼び出され、「行くと中華思想組の過激派に政治利用される。西尾先生大歓迎という横断幕を空港で用意して待ち受けている」と警告されたため、急遽中止したことがあった。
羅大使はアメリカ留学時代に、事故死した生田浩二の葬儀を主催した逸話もあるほどに情の厚い人でもあった。生田は唐牛健太郎時代の全学連幹部、その周囲には島成朗、森田実、青木昌彦、香山健一、西部邁らがいた。
本書にはこの逸話も挿入されている。生田は、将来を嘱望されてのアメリカ留学中に火災事故に遭って急逝、寮で同友だったのが羅さんだった。
拙欄でも、この話を書いたのも、羅大使就任祝賀会に白金の代表処に呼ばれたとき、中嶋嶺雄教授がめざとく見つけ、「なぜ生田浩二の書がここに掲げられているのですか?」と質問したからだった。
そんな私的なことを書いていると紙幅が尽きた。ほかにも日台交流の裏話や逸話が満載である。